Beside you
〜お前の傍に〜








 目の前を、ゆっくりとした足取りで歩く青年の背を眺めて、少し年嵩の青年が小さな笑みを零す。
 気配で察したのか、足を止めて振り返る青年が不思議そうに彼を眺め、笑みを浮かべたまま何でもないと言った彼の言葉を信じて、再び足を動かす。
 少し危ない足取りは、ともすれば小さな石でも躓きそうな程だ。
 車で行こうと言った彼の言を却下して、歩くのだと言い張った。今は、自分の足で地を踏む感触を楽しみたい。
「やっとついた」
 声を上げて立ち止まり、両腕を頭上に突き上げた青年が振り返る。
 明るい笑みと真っ直ぐに見詰める瞳。
「……」
 無言で見詰め返し、その隣に立つ。無邪気な笑顔は変わらず、彼の心を知らず救い続け、光を与えている。
「どないしたん?」
「……。いや」
 僅か目線を上げて問う青年の背を軽く押して二人は並んで歩き出した。


   *


 望みが叶うのならいつまでも傍で、全てを分かち合って共に歩いていたい。
 お前の、その笑顔に、救われていた。


   *


 自由を得てからも時折入る「本家」絡みの仕事は、志島弓生にとって慣れるものではない。
 命令ではなく自分達の意思で選べと言われても、千年以上も「命令」される事に慣れていれば戸惑うなと言うのが間違いだ。
 その点、相棒である戸倉聖の方は気が楽である。なんせ「本家」との橋渡しは全て弓生が引き受けてきた為、あまり違和感というものがない。
 この日も「本家」の一角を担う秋川に呼ばれて、二人は奈良へと赴いた。
「佐穂子に会うん何年振りやろ」
 座敷に通され、待っている間、聖は呟くような声音で言って笑みを浮かべる。
 隣に座す弓生は、小さな息をついて肩を竦めた。
 実際には、面会するのは当主である。いくらなんでも当主の娘は出て来ないだろう。だが、そうも言い切れないのが何とも厄介で。
 すっ、と襖が開いて、弓生は反射的に頭を下げた。逆に聖は入ってきた相手を見遣り、にやりと笑みを浮かべる。
「何や、ちぃとも変わっとらんやんか」
 その言葉に反論しかけた秋川佐穂子は、ぐっと堪えて二人の前に座した。
 一枚板の座卓を挟んで対面する三人の間に妙な雰囲気が流れる。
 既に大学を卒業し、実家に戻ってからまだ一年、今までサボっていたツケが山積みになっている佐穂子にとって、この対面は願ったりのものだった。佐穂子曰くの「煩いオヤジ連中」は渋っていたが、それはきっぱりと無視を決め込んだ。
「久し振りね、二人共。何だか以前より元気そう」
 精一杯の虚勢を張って、佐穂子はにっこり笑顔で二人を見る。本当は泣きたい程嬉しいしのだ。招請に応じてもらえるかどうかなど、判らなかった。だから「行く」と連絡を受けた時、二人の顔を見るまでは半信半疑だったのだ。
 しかし一瞥してそれを見破っている聖は意地悪く笑って話の先を促す。
「…っ、あの、ね。少し、見てもらいたいものがあるの」
「品物か何か、か?」
「あ、ううん、違うのよ。場所なんだけど」
「場所?」
 佐穂子の言葉に弓生が応じ、僅かに眉宇を潜めて黙り込む。
 場所は奈良県の飛鳥にある、舟形岩近くの山中。妙な力場が出来上がっていると判ったのは二人に連絡を取る一ヶ月前。秋川の術者が数人それを探っていたが、何れも大怪我を負って戻ってきているという。
「佐穂子はそれ見たんか?」
 聖の素朴な疑問に佐穂子は首を左右に振る。側近連中がこぞって引き止めるので未だ現場にすら足を踏み入れていない。
 相変わらずやなぁと感心する聖は襖の向こう側へちらと視線をくれてくくっと笑った。
「ま、ええわ。ほな行こか、ユミちゃん」
「え?」
 笑いを収めて立ち上がろうとした聖を見て、佐穂子は思わずきょとんとする。
「え…、て。俺等と昔話する為に呼んだんと違うやろ?」
 本気でそう聞く聖を睨んで、佐穂子は自分の坐っていた座布団を無言で投げ付けた。
 ぎょっとなった聖は避け損ねて顔面に座布団を受けてひっくり返り、隣では弓生があからさまに呆れた溜め息を零している。
 まあ、これで女心が判っていれば、鬼になどなっていなかったのだろうが。
「それで、一般市民の被害は」
 ひっくり返ったままぶつぶつ言っている聖を無視して弓生が口を開く。
 話を振られて居住まいを正した佐穂子は、被害は身内だけで一応一般市民が近付かないようにしていると告げた。
「ならば別に今すぐでなくても構わないという事だな?」
「ええ、そう。一応、部屋を用意してあるんだけど」
 がばっと起き上がり、何事かを言い募ろうとした聖を黙殺して、佐穂子と弓生の間で話が進んで行く。
 聖は、何やら得体の知れない不安を覚えたのだが、口を挟む余地すらないし、何かの間違いかもしれないので黙っておく事にした。
 この時、聖が強引にでも割って入って現場へと赴いていれば、或いは未来は変わっていたかもしれない。


 翌日、どうしても一緒に行くと言い張った佐穂子の案内で現場に向かった聖と弓生は、辺りを窺って足を止めた。
 確かに、何やら妙な力場がある。だが、力場があるだけで害を為そうとする様なものは見当たらない。
「あ、そう言えば」
 警戒する二人の後ろにいる佐穂子が急に声を上げたので、肩越しに振り返った聖がその続きを促す。
「どないした?」
「あ、うん。聖達が来る前の日に、三吾から電話があったの」
 佐穂子の言葉に二人は互いに顔を見合わせて体ごと彼女の方に向き直る。
 これと関係あるかどうか判らないがと前置きして、佐穂子は四国に居を置く「本家」の一つである御影当主からの「報告」を話し出す。
 今から三ヶ月前、高知県沖合いに蜃気楼のような力場が出現したと御影の家に連絡があったものの何かが起こる訳でなく、彼等は暫く静観する事にした。
 その一ヵ月後、沖合いの力場がなくなったと同時に香川県山中に同じようなものが出現。手を出すなとの通達に地元の者達も近寄る事なく同じように静観していれば、更に半月後、今度は瀬戸内海にそれが出現したとの報告が来た。
 どうやら移動しているらしく、当主の側近がそれの動向を監視、半月後奈良県の飛鳥に出現した時点で当主に指示を仰ぎ、佐穂子に連絡が入ったという事だ。
 御影の言葉を信じれば「それ」はこちらが何もしなければ無害で、時期が来れば移動するという。
「連絡が遅すぎたという事か」
 弓生が呆れたように口を開いたので佐穂子は同意するべく力強く頷いた。
 なんせ御影からの連絡はつい二日前だ。一ヶ月の間何をしていたのかと言いたい。彼がさっさと連絡をしてくれていれば余計な怪我人を出さずに済んだのだ。
「繋がらなかったんだよっ」
 と。
 三人三様旧知の間柄である御影当主を胸中詰っていると、どこか投げ遣りな口調が三人の間に落とされた。
「三吾」
「あんた、何でここに!?」
 びっくり眼で名を呼ぶ聖と佐穂子の怒声が重なる。
 それら二つを綺麗に流して、御影三吾は力場を示した。つられてそちらを見やった三人の間に緊張が走る。
 蜃気楼のように揺らいだ空間の向こうに、人影が見えたような気がした。
「何…?」
「下がった方がいい」
 眉宇を潜める佐穂子の腕を掴んで、三吾が二人の鬼に下がるように言う。
 だが既に臨戦態勢の聖の耳にその言葉は届いておらず、弓生はいつもの事だと肩を竦めて援護出来るポジションに立つ。
 仕方ないと溜め息をついていつでも反撃出来るよう周囲に気を配った三吾と佐穂子は、次の瞬間目を剥いて二人の元へ駆け出す。
 山中に木霊する音と硝煙の臭い。
 揺らいだ空間の向こう側から、まさか発砲されるとは思っていなかっただけに聖も弓生も対処が遅れた。
「聖!」
 目の前で膝を折った聖の元へ駆け寄った弓生が手を貸して立たしてやるが、朱に染まった右太ももを見て僅かに目を眇めた。
 何を感じたのか動こうとした弓生を制止した聖は大丈夫だと言いたげに自力で立ち、目の前を凝視する。
 向こう側に動く人影は二つ。何やら怯えているようで、こちらに向けられている銃口が小刻みに震えている。
「人間、か?」
 呟く弓生の声に聖が僅かに顎を引く。
 いつの間にか、自分が何処に立っているのか判らない程の濃い霧が辺りに広がっている。
「弓生、聖?」
 驚きを含んだ三吾の声が二人の後ろから聞こえ、弓生がこっちだと声をかける。
「どうなってんだ」
「そんなの、こっちが訊きたいわよ。それより聖、大丈夫なの?」
 がしがしと頭を掻き毟る三吾に噛み付いた佐穂子は右足を庇って立っている聖を見遣る。
 ひらりと手を振るだけに留めた聖は怪訝に眉を潜めて上げた手をそのまま前へ突き出した。その手がほんのりと熱を持った物に触れ、しっかり握って引っ張り寄せる。
「うわぁあっ!?」
「何や!?」
 突然おっかなびっくり上がった声に、聖の方が驚いた。
「どうした!?」
「ああ、何や、驚かしてもうたわ」
「……いや、そんな問題でもねぇと思うが」
 慌てた三吾がそちらへ向くと、聖の足元に腰を抜かした猟師風の男が二人、へたり込んでいた。聖はと見れば男達のものだろう、猟銃の銃身を握ったまま苦笑している。
 銃身を握ったままひょいと肩に担いで、聖は男達から話を訊く為に屈み込んだ。
「ひっ!」
「何やその反応。……おっちゃんら、この辺のもんか?」
 二人抱き合って怯えている姿に聖は一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直して尋問を始める。
 訊かれた内容が判らなかったのか、男達はどういう意味だと小さな声で訊き返してくる。これにはさすがに聖も驚き、屈んだまま後ろの三人を振り仰いだ。
「奈良の人間かって訊いてるのよ」
 佐穂子が助け舟を出すが、男達はきょとんとして彼女を見上げ、序で目の前の聖へ視線を移す。
「……奈良?」
「せや」
「関西の?」
「関西以外に奈良県て存在してたか?」
「……。……え?」
 混乱しているのか、男達は再度互いに顔を見遣り、あまり聞きなれない訛りのある言葉で会話をする。
 根気良く終わるのを待っていた聖だったが、何かに気付いて顔を上げ、銃を杖代わりにして立ち上がった。
「聖?」
「三吾、佐穂子。彼等を頼む」
「ちょっと、弓生?」
 警戒も露の聖の背に佐穂子が声をかけるが、それに答えたのは弓生の方で、男達を三吾と佐穂子に託して正面を見据える。
 頼むと言われても、何をどうすればいいのだと二人は言いたかった。二人が見据えるその先から滲み出てくる殺気を捉えるまでは。
 三吾が一人目の男の腕を掴んで立たせると、自動的にもう一人の男も立ち上がる。佐穂子と二人で男達を背後に庇って結界を築いた。
 先制攻撃とばかりに仕掛けられた青い光が霧を薙ぎ払うように空を走る。
「おい、あんた等。ひょっとしなくても、四国の人間か」
 それを横目に三吾が妙な確信を持って口を開けば、躊躇う事なく二人が首肯したのでやっぱりと呟いた。それが本当なら無害などではない。
「三吾?」
「この件と関係ないと思ってたから言わなかったんだが、香川に出現した前後に猟師が二人行方不明になってんだ」
「…って、まさか」
「ああ。だったら、俺達もヤベェって事になる」
「ちょっと、何でもっと早く思い出さなかった訳?!」
 佐穂子に噛み付かれ、三吾は首を竦めてウルセェとぼやく。
 男達は訳が判らず、首を傾げておずおずと口を開いた。
「あの…、奈良って」
「ああ、済まねぇな。香川であんた等の捜索願いが出てる。二ヶ月前だ」
 なるべく感情を排して三吾が告げると男達は目を見開いて信じられないと首を横に振った。
 信じようと信じまいと、事実だ。ここが奈良県内で男達が行方不明になってから二ヶ月以上が経っている事も。
「聖」
「ユミちゃん、そっち任せた」
「お前は?」
「大丈夫や。心配せんだってええよ」
 一方その頃殺気の主と対峙している聖と弓生の方では、些か不利な状況に追い込まれ、取り敢えず聖が足止めをして弓生が佐穂子達を逃がす段取をとっていた。
 蛇足だが、三吾と佐穂子の会話は二人の耳にも届いている。
「佐穂子、三吾。一度退くぞ」
「え…っ、ちょっと待って」
「三吾、合わせろ」
 二人の術者の元まで退いてきた弓生が一方的にそう告げて右手を掲げた。白い光が腕に絡みつき、聖が退くタイミングを計る。
 三吾も仕方なしに印を組み、結界を佐穂子に任せて呪を唱え始めた。
「聖! 早くこっちに!」
「構わんと行け!」
 青い燐光が膨れ上がり、四足の獣のような異形を押さえ込む。叫ぶ佐穂子に怒鳴り返して、聖は弓生に合図を送った。
 同時に、白い光を伴った雷撃と呪による攻撃が四足の獣に直撃する。轟音と共に霧が薙ぎ払われ、見慣れた風景が目の前に広がった。
「佐穂子様!」
 互いの存在を確認していると、秋川の側近の声が聞こえてくる。
 こっちだと返事をすれば、ばたばたと数人の足音がこちらに向かってきた。嫌な予感がした佐穂子はそっと三吾の後ろに隠れる位置へと移動する。
 彼等の前に現れたのはかなりの人数で、中には三吾の側近までいる。
「佐穂子様、ご無事で」
 ほっと胸を撫で下ろす側近に佐穂子は眉宇を潜めた。実はこの現場へ来るのに黙って出てきたのだが、どうやらそれに対するお説教ではないらしい。
「え…と?」
「一週間もどちらにおられたのですか」
「……。……は?」
 側近の言葉に一同唖然として捜しに来た術者達を眺める。言われた意味が判りませんと、言外に含みまくっているのだが、生憎誰一人その意を汲む者はない。
 その中で、弓生だけが難しい顔をして周囲を見渡している。
「弓生?」
「三吾、聖は、どうした?」
「え?」
 弓生の、僅かに強張った表情に三吾は蒼白になって周囲を見回す。
 いるのは佐穂子と男二人と弓生と自分だけ。聖の姿は何処にも見当たらない。
「え、嘘」
 一拍遅れて佐穂子が真っ青になる。秋川の側近が、何かに気付いて彼等の背後を指差した。
 振り返った彼等の目に、例の力場がぼんやりとある。歩み寄った弓生が手を伸ばすが掴める訳ではなく、そこに相棒の姿を見つけてふわりと気配を変えた。
「ちょっ、待てっ! 弓生、その至近距離だと聖まで巻き添えっ」
 慌てて制止の声を投げて弓生の肩を掴んだ三吾は向こう側で何かを言っている影に目を凝らした。
 掴めない、触れられない、聞こえない。弓生の苛立ちが掴んだ肩から伝わってくる。
 力場が掻き消える寸前、不意に弓生の肩が強張った。伸ばした手の先は無論届かず、三吾は言葉を失くして肩を掴んでいた手を放す。
「弓生……」
 言葉を探しても見付からず、佐穂子は、唯弓生の名を呼んだだけで口を噤んだ。
 無言のまま佇んでいた弓生は何かを振り切るかのように一度目を瞑り、伝わった最後の一言を反芻する。
「待っとってや。必ずユミちゃんとこに戻るから」
 聞こえなかった声は、しかしその言葉だけ弓生の元に届いた。
 待っていろと言った。ならば、弓生に出来る事は聖が傍に戻ってくるまで待つだけだ。
「弓生?」
「聖、が」
「ん?」
 三吾の声に反応して、弓生がゆっくりと振り返る。
「いや、いい。それより」
 感情を押し殺し、無表情に側近達を眺める。皆一様に説明を求めたがっているのだが、弓生の気配が尋常ではなかったので声をかける事が出来なかったのだ。
 ここではなんだからと、佐穂子の一言で全員がこの場所から秋川本家へと移る事になり、この一件を三吾、佐穂子の両名の口から説明がなされた。
 弓生をどうするかで少し揉めたが、弓生の希望で秋川家に滞在する事になった。得体の知れない例の力場は、今後どう考えても本州内に出現するだろうというのが理由だ。
 力場に囚われていた男二人の記憶は二ヶ月前で途切れている事が判明、唯あの空間の中を四足の獣から闇雲に逃げ回っていたのだと言う。
 事情説明の後(尋問したとも言うか)男二人は三吾と共に四国へ戻り、事の次第は「本家」を構成する残りの一つ、神島家当主へと報告された。


   *


 いつか来る別れをまだ認められない。いつの間にか独りになって居場所がなくなっていく。
 二度とない時間ならいつの日も傍で、何もかも無くしても構わないと誓う。
 お前の、その笑顔が、光をくれたから。


   *


 五年も経てば代は替わる。
 秋川の家も、佐穂子の父親から彼女自身に引き継がれ、予(かね)てよりの婚約者である人物を迎えた頃、飛鳥に留め置かれていた筈の力場に異変が生じた。
 あれ以降、弓生は佐穂子の強引なアプローチによって秋川本家の一室に仮住まい、表面上は何事もないように振舞っているものの、佐穂子が危惧した通り日常生活は殆どと言っていい程まともにこなしていない日々が続いていた。
 唯、今まで持っていたのは「聖が戻ってきた時に心配させる気なの」と、佐穂子の半ば脅し文句が功を奏しているからである。
 異変の知らせはすぐさま御影、神島両家に伝えられ、弓生と佐穂子が駆けつけた時には力場は綺麗に消え失せていた。
 五年前、秋川と御影両家の術者達によってあの力場は飛鳥に留め置かれていたのだ。掻き消えたように見えただけで実際にはそこに存在し、だが邂逅するのは叶わなくなっていただけである。
 あの中と外では時間の流れが違うし何より一般人の犠牲はもう出したくないという尤もな理由だが、偏に弓生が力場を追って行方を晦ませる事が怖かった。聖に序で弓生まで失うのはイヤだったというのが、佐穂子と三吾の一致した見解である。
「何、どういう事」
 現場に駆けつけた佐穂子がその場を眺めて茫然とする。
 力場があった痕跡すらそこにはない。あるのは固定していた術の余韻だけ。
「おそらく、移動時期だったんだろう。五年も留め置けたのは奇跡だったのかもしれんな」
 冷静にそう返した弓生を窺い見て、佐穂子は唇を噛む。
 二人が互いを必要として、どちらが欠けても成り立たないのだという事はイヤという程知っている。こんな、感情の抜け落ちた表情を見るのは二度とイヤだったのに。
「佐穂子」
 俯いて何かを堪えるように拳を握り締めていた佐穂子は、自分の名を呼ぶ弓生の声に顔を上げる。携帯電話を片手に、弓生は微かに笑っていた。
「達彦からだ。京都の、嵯峨野方面で異変が起こったらしい。おそらくここにあった例の力場だろう」
 通話は既に切れていたが、弓生の携帯電話を直接鳴らしたという事は、十中八、九奈良のものと同じものであるとみて間違いない。
 口を開きかけた佐穂子を片手で制し、弓生は今まで見せた事のない優しい笑みを浮かべてみせた。
「俺一人で行く。聖が戻れば、必ず会わせる」
「弓生?」
 不安げに呼ぶ佐穂子を残し、弓生はその足で京都にある神島本家を訪れる。
 秋川から神島へ、弓生がそちらへ移動したと伝えられてから五時間後、到着した弓生の姿を見て当主である達彦は相変わらずの鉄面皮を僅かに歪めた。
「酷い有様だね」
 その一言を残し、家人に部屋を用意させてとにかく休めと言い置いた。
 弓生としてはそんな余裕はないのだが、佐穂子辺りから聞いたのだろう、達彦にも、彼女と似たり寄ったりの言葉で釘を刺されては何も言えず、大人しく用意された部屋へと引き篭もる。
「本当に、手間のかかる」
 苦々しく零された達彦の言葉は、当の本人には届いていない。
 弓生が到着したと佐穂子に連絡を入れ、その返す手で嵯峨野に待機させている家人へ連絡を入れて見張っているよう命じる。
 あの様子では、夜明けと共に現地へ飛ぶだろう。だがあの力場をどうこうするにはもう二、三日の休養が必要だ。
「桐子様の仰る通りだな」
 一人ひとりでは何の役にも立たない。これでは犬猫の方がまだマシだと、生前彼の祖母が口にしていた言葉だ。
 半ばうんざりとして、達彦は家人に命じて弓生を暫く眠らせるという強引な手段に及んだ。


 二日後にやっと目覚め、神島家に到着してからの記憶がすこんと抜け落ち、何やら理不尽な仕打ちを受けたようだと考え込んでいる弓生を連れて、達彦の側近は当主の命令で嵯峨野の現場へと向かう。
 嵯峨野の竹林のど真ん中にある不安定になっている力場を囲んで弓生の到着を待っていた神島の術者達は、力場に無造作に近付いていく弓生を見て唖然とした。如何せん、不安定すぎるのだ。何が起こっても不思議ではないくらい。
「……聖」
 今まで、その名を呼ぶ事はなかった。他者がいくら呼ぼうと、彼自身、決してその名を口にはしなかった。呼べば箍が外れてしまいそうだから。
 ゆらりと揺れる空間。突然湧き出した霧に遠巻きにしていた術者達が色めき立つ。まるで、弓生が告げた名に反応しているかのように霧は彼を取り込んで、そして、消えた。


 霧に包まれた事を認識した弓生は、気配のする方へと歩き出す。五年前、こうなる事が判っていれば共にここに残っていた。
「聖、何処だ」
 返る声はない。だが身動ぐ気配はすぐ近くにある。
 歩みを止めずにそちらへ向かい、断末魔の咆哮を耳にして動きを止めた。
「聖?」
「……ユミちゃん?」
 呼びかけに返った声は非常に弱く、焦ってそちらへ手を伸ばす。手に触れたものを引き寄せれば、懐かしい気配と共に久し振りに会い見える相棒の温もりを腕の中に納める事が出来た。
「聖?」
 ぐったりとしている聖からは何も声が返らない。袖に染み込んでいく濡れた感触に眉宇を潜める。
「聖、お前」
「……。かんにんや。あのバケモン、片付けんのに、えらい手間で、……先刻、やっと片付いてんけど…な」
「判った」
 荒い呼気と共に告げられた内容に目を伏せ、もういいと耳元で囁くと、弓生は躊躇いもせずに右手を掲げた。
 力場を保っていたのはあの五年前の四足の異形。それが聖によって倒されたので、力場は不安定に歪み、崩壊しかけている。
 その、場所へ。弓生は無造作に掲げた右手を振り下ろし、雷撃を放った。確実に粉砕し、二度とこんな事態が起きないように。
 轟音と衝撃が嵐のように二人を包む。そこへ別の力が割って入り、気が付けば竹林の中、術者達に囲まれて突っ立っていた。
「全く。私は父と同じ轍を踏むつもりはさらさらないよ」
 戻ってこれた事に息をつきかけた弓生の耳に達彦の厭味が飛び込む。そちらを振り返れば組んでいた印を解いた達彦の、鋼色の瞳がこちらを観察していた。
「君がここで消えてから三日が経った。説明は後で聞く。屋敷に戻りたまえ」
「……ですが」
「君は今、自分の状態を把握していないようだね。私は酒呑童子の喚く声など聞きたいとは思っていないよ、雷電」
 呆れた口調でそう告げられて、弓生は大人しく達彦に従った。以前とは比べ物にならない程なんだか丸くなった気がすると、胸中微笑む。
 時間は、明らかに流れている。人も物も、時間の流れと共に変わっていくものだ。ならば自分達は、自分は、どうなのだろう。
 神島本家の離れに設えられた自分達の部屋に戻って、弓生はやっと肩の力を抜く。聖は別の部屋で手当てを受けているのでここにはいないが、同じ空間にいるというだけで心安らげる。
「君も少し休む事だね」
 言外に、お前に何かあればあれが煩いと含められているのを知って、微かに口元を緩ませ、静かに頷いて達彦の進言通りに休む事にした。


 さらに二日後、やっと意識が回復したという聖の枕元に陣取った弓生は彼が居なくなってからの出来事を淡々と語って聞かせる。
 なんせ五年だ。語り聞かせるには少々長い。聖は自分が五年もいなかった事に酷く狼狽していたが、弓生は気にせず唯静かに笑みを浮かべているだけ。
 神島家に滞在して一ヶ月、やっとまともに動けるようになった聖に達彦が奈良に行くよう進言した。
「へ? 何で?」
 突然部屋にやってきてそんな事を告げた達彦を不思議そうに見遣る聖に、達彦は呆れたと言わんばかりの態度で溜め息をつく。
「秋川に、無事戻った姿を見せるのは礼儀ではないのかい?」
 そう言って聖の横に控えている弓生へ視線を送る。つられて振り返った聖はああそうかと納得した。
 自分が居なくなっていた間、弓生は秋川家に仮住まいしていたのだ。佐穂子だって心配していてくれたのだから、無事な姿を見せに行くのは道理だろう。
「何故、ここまで」
「さぁね。気紛れ、とも言うか。君達に報いたところでバチは当たるまい?」
 不審げに眉を潜める弓生に達彦はしれっと嘯き、僅かに笑んで部屋を後にした。
 聖はぽかんとして達彦を見送り、弓生を見遣って小首を傾げる。
「達彦、何や悪いもんでも喰うたんか?」
 それとも何処ぞで頭でも打ちよったんやろかと失礼極まりない言葉を口に載せる相棒を横目に、弓生もまた達彦の変化に戸惑っている。


 ともあれ、二人は達彦の言葉通りに翌日には奈良へと向かい、佐穂子と三吾の二人と五年振りの再会を果たす。


   *


 まだ来ない夜明けを唯待ち続けていた時もあった。
 どれ程傷を重ねても許される事はないと思っていた。
 お前と、出逢って。
 振り切れない過去さえ忘れられる。
 凍て付いた闇でさえ、切り開ける。
 お前のその笑顔が光をくれて、俺は救われたのだから。












〜了〜





羅紗さんから頂いてしまいましたvv
しかも「出逢えた&仲良くなった記念」だそうでっ!!
ありがどうございまずーっ!!(大感激)

羅紗さんの作品はいつも先が読めないので、
どうなっちゃうんだろうというドキドキ感があります。
今回もホント、ドキドキしました!
再会できて本当に良かったねぇ〜っ!!
そして2人の絆の深さがっ!!(感涙)

羅紗さん、本当にありがとうございましたvv
2007/09/13