その日の午後。玄関のチャイムが鳴った。
その音で耳をピンッと伸ばし急いで出ようとした聖を制止し、弓生が出た。
するとそこに待ちかねていた人物が立っていた。
「遅くなって済まない」
「いえ、ご足労痛み入ります」
「堅苦しい挨拶は無しにしよう…。ところで当の鬼は?」
「おー、おっちゃん」
明るく朗らかにリビングから出てくる聖。
ご機嫌な様子が端から見ても分かるよう、尻尾も耳も元気良く跳ねている。
術者は咳払いをするように握り締めた拳を手を当てる。
ほんの少し、肩も震えているようだ。
「おっちゃん…なに笑うとんねん」
「いや、失礼した。猫の霊に取り憑かれた、とは聞いていたが、まさかそこまで分かりやすく憑かれているとは思わなかったもので」
確かにな、と言うのがその場にいた全員の心の声であった。
「早速始めたいのだが…部屋はお借り出来るか?」
「あっ!それならオレの部屋を使ってくれや。こっちやこっち」
いそいそと自分の部屋に案内する聖。
すると、部屋に入る寸前で術者はふと立ち止まると振り返った。そして後ろにいる面々に噛んで含めるように言った。
「祓い中は他の者には立ち入らないで貰いたいのだが、構わぬか?」
「……心得ております」
「なに、心配は要らぬ。間違えて酒呑童子を祓うことはせぬよ」
「あ、いえ。決してそのようなことを疑っているわけでは」
「そない心配せんでも大丈夫やて、ユミちゃん。ほなお前らもまたあとでな?」
バタリ―と部屋が閉ざされる。
二人きりになった途端、術者が相好を崩した。
「おっちゃん?」
「あの鬼は余程お前が大切と見える」
「へ?なんで?」
「他の者から聞いた話だが、かなり必死な様子で腕の立つ術者を探していたらしい。……次期当主以外でな」
「そうなんか」
聖は悪いことしたな、というような表情で、珍しく真剣に考えた。
そして、うん―と大きく頷いた。
「ほな後で、もいっかいちゃんと礼を言わんとな」
「そうするといい。………それでは始めたいのだが、先刻伝えた通りにきちんと身は清めただろうな?」
「うん。ばっちりや」
因みに今の聖の衣装は清潔な白装束だ。
「そうか…。では始めるぞ?恐らくかなりの荒療治にはなるが、大丈夫か?」
「大丈夫や。体力は有り余っとる」
―確かにこの鬼は体力無尽蔵である。
「万が一のことが起きそうになったら、私はお主の身を優先にするぞ。猫を祓うのはまた日を改める。…それでよいか?」
「うん、分かった。せやけど絶対平気やと思う。なんせおっちゃんは祓いの天才やしな。二人揃えば怖いもんなしや」
決してお世辞ではない―というか、お世辞なんてものを言ったことのない聖。
思わず術者の顔に笑みが零れる。
「それでは、行くぞ?」
「おう!頼むな、おっちゃん。信用しとるで?」
聖は満面の笑みで術者を見つめた。
******
祓いにはかなりの時間を要した。
大丈夫だとは思っていても、なにもすることがなく待っているだけという時間は、長く感じる。三吾も佐穂子も、10分間隔で「そろそろかな?」と言っていた。そしてその度に「まだあれから10分しか経ってない」と弓生が答える―その繰り返し。
だが、一番気が気でないのは弓生だということを、みな分かっていた。
そしてすっかり夜も更け、マンションから見える景色が昼の情景から夜景に変わる頃、ようやくリビングのドアが開いた。みなが一斉に振り返ると、聖が元気良く手を振りながら入って来た。
憑き物が取れた―まさしくその言葉の通りなのだが―ようなすっきりとした表情である。
「ユミちゃ〜ん、終わったで」
大丈夫だとは分かっていたものの、実際目で見るまでは気が気ではなかった。
そんな弓生に安堵の溜息が出る。
「お前らもまだ居ってくれたんやな。ほんまおおきに」
その聖の後ろから、風呂敷包みを抱えた術者が歩いてくる。
弓生はその姿を見つけると、深々と頭を下げた。
「心から感謝いたします」
「いやいや。お気に為さらぬな」
「ほんまにおおきにな、おっちゃん」
弓生とは対照的な御礼を言う聖。
だがこう見えても、かなり感謝しているらしい。
「お主もこれからは簡単に憑かれぬよう、気を引き締めることだな」
「おう!任せとき」
なぜだかそこでガッツポーズをする聖。
「それよりおっちゃん。メシ食うてかんか?礼に旨いもん作るで?」
「いや。今日の所はこれで失礼する」
「えー」
「それなら今度、犬にでも憑かれた時にまた呼んでくれ。その時は招待になろう」
イヤミかい―と聖は笑う。
「それではせめて別宅までお送りします」
「いや、車で来ているので要らぬ」
「分かりました。今回は本当にありがとうございました」
「おっちゃん、忘れもんないか?」
「大丈夫だ」
「ほな、ほんまに気ぃつけてな?あと、ほんまにおおきにな?」
聖の笑顔に見送られながら、術者は帰っていった。
それを見て、三吾はん〜っと伸びをした。
「さてと。それじゃ俺らも帰ろうかねぇ」
「そうね。すっかり夜になっちゃったしね」
「お前らも帰るんか?せめてメシ食うてけや」
「いいわよ。買い物もこれからなんでしょ?」
「あ…そうやった」
「また来るから、その時に期待しているわ」
「ん、分かった。……せやけど今回はお前らになにもしてやれんかったな」
「いいわよ。報酬貰ったし」
「…報酬?」
小首を傾げた聖の前に、携帯を翳す。
その待受画面になっているのは―。
背中を丸めて、すやすやと眠っている聖だった。
しかも猫耳に尻尾の、例の取り憑かれた姿で――。
「なっ、なんやこれー!こんなのいつの間に撮ったんや、オレ知らんで?」
「我ながらよく撮れてる。いいでしょー♪」
「よくないわい!!」
「俺もあるぜ」
「なんやてっ!?」
奪い取った三吾の携帯にも、例の聖の寝顔が写っていた。
「大丈夫。俺は待受にしねえから」
「そういう問題やないやろ!これは立派な名誉毀損や、人権侵害や!!」
「だってお前、いくら猫が取り憑いたからって、寝過ぎなんだもんよ」
「そうそう。1日の半分は寝てたわよね」
笑い合う三吾と佐穂子。
「やかましい!消せっ、今すぐ消せやー!!」
「やだ。貴重だもん」
「そうそう。それに最後まで付き合ってやったんだから、このくらいのご褒美は欲しいよな」
「お前らなあ!」
ふるふると怒りに肩を震わせていた聖だったが、この会話に参加していない人物の存在にハッと気付き、振り返るとその者の腕を引っ張った。
「ちょっ、ユミちゃんっ!さっきから黙っとらんで、ユミちゃんからもあいつらになんか言ってくれや」
すると、それまで無言で成り行きを見守っていた弓生が、スッと立ち上がった。
「……三吾。こっちにこい」
「なっ、なんだよ。言っとくけどな、脅しても削除しねぇよ」
怯えながらも思わずファインティングポーズをする三吾を、ずるずると部屋の奥まで連れていく弓生。そして聖に聞こえぬよう、ポツリと呟いた。
「……すぐ」
「は?」
「今すぐに俺の携帯に転送しろ」
「…へ?なにを?」
「お前が撮った聖の写真だ」
「………」
凄味のある声なのに内容が可笑しいものだから、三吾は思わずプッと噴き出した。
「なんだ。やっぱり弓生さんも好きだったんだねえ」
「……っ、そうではない。単に聖に戒めとして」
「そういや夕べは聖と部屋に行ったっきり戻ってこなかったしな〜」
「……っ、別になにもしていない。ただ聖が」
「はいはい。分かったよ。そういうことにしといてやるよ」
面白がるような声音の三吾にギロリ―と睨むが、効果はなかった。
その後の弓生の反逆は怖いが、今だけは優位に立ちたい三吾であった。
******
その後、車で来ていた三吾とはエントランスの前で別れ、夜も遅いので佐穂子を家まで送っていった。
そして二人きりになった帰りの車内―。
「ユミちゃん」
「…なんだ?」
聖はずっと言おう言おうと思っていた言葉を紡いだ。
「今回はほんまにおおきに。何遍いっても足りひんくらいや」
「いや」
「あと、心配掛けてしもて、ほんまにかんにんや」
「全て無事に終わったんだ。もう気にするな」
「うん。……せやけどオレな、ほんまは最初、元に戻らなかったらどないしょって思ってたんや。ほんまはちょっと怖かった」
「……」
「せやけどな、ユミちゃんが平気やて、大丈夫やて。なにがあっても傍に居ってくれるてゆうてくれたから、オレ心から安心できたんや」
「……」
弓生は黙って聞いている。
「せやからほんまにおおきにな」
「……」
「ユミちゃんが居ってくれてほんまに良かった」
「そうか…」
それっきり会話も終わり、いくらタフな聖でもこの2日で様々なことがありすぎた。そのためやはり疲れていたのかウトウトし始め、終いには船を漕ぎ出した。弓生はしばらく起こさずに、少しでも寝かせてやろうと少し遠回りをしたりスピードを落としたりしていた。だがそれにも限界があり、もう少しでマンションに着こうかという頃、弓生が助手席の聖に声を掛けた。
「起こしてすまんが、聖。そろそろ着くぞ」
「ん…」
もぞもぞと動き、ゆっくりと瞳を開けると、焦点の定まらぬ顔でボーっと前方を見ていたが、ハッと我に返った。
「ありゃ?寝てしもたんか?かんにん」
「いや」
助手席の窓から見える見覚えのある景色を見ながら、聖はご機嫌の様子で鼻歌を歌い始めた。すると、弓生が徐に口を開いた。
「さっきの話だが」
「え?」
―(なんの話やろ?)
聖は助手席の窓から、隣の弓生へと視線を移した。
「俺も正直怖かった。お前も一緒に祓われたらどうしようかと―」
「ユミちゃん…」
「だから部屋から出てきたお前を見たとき、心から安心した。ありがとう」
「…ユミちゃん」
―(御礼を言うのはこっちの方なのに)
聖は目を丸くして弓生を見つめたが、すぐに笑顔になった。
「聖…」
「ん?なんや?」
「ここしばらくお前を抱けなかったから…今日は抱いても良いか?」
「え?…ええっ!?」
予想していなかった言葉に、聖は真っ赤になって慌てた。
「どっ、どないしたんや、急に?」
『抱きます宣言』なんて、ほとんど初めてではないだろうか。
「今、無性にお前に触れたい。駄目か?」
「ダメやないけど……」
もちろん嫌なことなどあるわけないのだが、宣言されるのも照れるものであって…。
だが聖は、赤くなった自分の頬をパンッと叩くと、満面の笑みで弓生を見つめた。
「ええよ。オレも、ユミちゃんに触れたいし、触れて欲しい」
そして満面の笑みで弓生を見つめた。
時刻はすっかり深夜を示そうとしていた。
だが、二人の夜はこれから始まるのだった。
〜終〜 |