それは遙か昔―
弓生が高遠、聖が鬼同丸と呼ばれていた頃だった。
「うわあぁ〜」
鬼同丸は瞳をぱあっと輝かせながら、顔を窓に押し付ける。
「うわあぁ〜っ、凄い凄い!ほらっ、高遠もはよ見てみぃ」
車窓から流れる景色に鬼同丸はご機嫌だ。 高遠を必死で手招きする。
そう、鬼同丸は生まれて始めて、汽車というものに乗っていた。
「凄い凄い!早いなあ〜。景色があっちゅう間に変わりよる」
子供のようにはしゃぎながら、鬼同丸は先程から窓から離れることはない。
「いいから落ち着け」
出発してからずっとはしゃぎっぱなしの鬼同丸を見て、高遠は呆れたように溜息を吐く。 もっと細かく言えば、駅に着いたときから鬼同丸のテンションは高かった。
「なあなあ、高遠。窓開けてもええか?」
「……」
高遠は周りを見た。 時間も時間だったからか、まだ庶民には汽車は高値の華だったからかは分からないが、車内にいる人はまばらだ。
「直ぐ閉めるなら構わんが」
鬼同丸は満面の笑みで、ガタッと窓を開けた。 その途端入ってくる風の気持ちよさに、鬼同丸は益々ご機嫌になる。
「ごっつぅ気持ちええわー」
季節は春―。 確かに気温も暖かく、入ってくる風が心地よい。 目を伏せながら風に当たっている鬼同丸。 そんな姿を見ながら、高遠はそっと口の端を上げる。 実は鬼同丸の始めての汽車への反応は、あらかた予想していた。 そしてその予想通りだったものだから、高遠も自然と笑みが零れる。
「なあなあ、高遠!見てみぃ、花畑や」
「お前ほど花が似合わんヤツはいないけどな」
「なんやそれ!オレかて綺麗なモンは綺麗やて思うで?」
背後から掛けられる声に、鬼同丸はムッとしながら振り返る。
「大体なー、なんで汽車の中まで本読まなあかんねん」
「俺の勝手だ」
「なんやつまらんー」
ようやく鬼同丸は椅子の背に凭れる。 思えば汽車が出発してからずっと窓にへばりついていたので、背に凭れるのは始めてだった。 そのまましばらくガタンガタンという汽車の音を聞きながら車窓から流れる景色を見ていたが、ふと隣にいる高遠を振り返った。
「なあなあ、高遠」
「今度は何だ?」
「こん中、探検してきてもええか?」
「……探検」
高遠の眉根がピクリと動く。
「せや!この汽車の中な、どないなってるか見たいねん」
「この車両となんら変わらんぞ」
「ええやんか。なあなあええやろ?」
鬼同丸の瞳がキラキラと輝いている。 こうなると、どう言っても無理なので、高遠は渋々承諾する。
「分かった…なら5分で戻ってこい」
「5分でなんて無理や」
「なら10分なら戻れるだろう…そんなに広くないからな」
「それも無理や。せやかてオレ、時計持ってないもん」
「だったらこれを持って行け」
高遠は鬼同丸に懐中時計を渡した。
「ええんか?」
「ああ。絶対に無くすなよ」
「うん、無くさん。ほな、行ってくるわ」
立ち上がり高遠に向かって手を振ると、鬼同丸は意気揚々と歩いていった。
それからしばらくして高遠は本を読んでいた顔を上げた。 時計を鬼同丸に渡してしまったため持っていないので今が何時か定かではないが、少なくとも鬼同丸が探検に行ってから悠に30分は経っている。
まあ10分で帰ってこいと言っても帰ってくるワケがないと分かっていたが、さすがに30分は長い。
第一この汽車は全部で3両ほどの小さなものである。 それに一本通路の汽車内で迷子になるわけがない。 まあ自分たちの車両が何両目か分からなくなったということはあるかもしれないが、それなら自分の横を通ってもいいはずだ。 高遠はフウッと溜息を吐くと、迎えに行こうと席を立とうとした。 するとようやく鬼同丸がご機嫌な様子で戻ってきた。
「ただいま〜」
「随分と長い探検だったな」
かなり嫌味を含んだ言い回しだったが、気付いていないのか、それとも慣れっこで流したのか分からないが、鬼同丸はヘラリと笑った。
「この2つ先の車両でな、婆さんが具合悪うなって大変やったんや。結構大騒ぎやったけど、高遠気付かんかったんか?」
「そう言えば騒がしいとは思ったが、本を読んでいたから気に止めなかった」
「そか」
鬼同丸はストン、と窓際の席に着いた。
「その婆さんな、丁度オレが傍を通った時に席で蹲っとってな、ビックリしたわ」
「そうか…。それで、その人は大丈夫だったのか?」
「うん。なんか持病が出たらしいんや。せやから急いで薬飲ませてやって、窓開けて背中さすってやってたらな、落ち着いたみたいや」
「そうか。良かったな」
「そんでそのまま色々話して来た」
「………」
「婆さん、今から孫の所に行くんやて」
「………」
遅くなった理由は介抱以外にも色々あったらしい。
予想はしていたが、まさかここまで予想が当たるとは―。
相変わらず人と関わるのが大好きな鬼同丸を横目で見ながら、高遠は溜息を吐いた。
「あっ、そうや!これ土産や」
「…なんだ?」
「煎餅や。婆さんがくれた」
「…子供じゃないんだからなんでもホイホイ貰うなといつも言っているだろう」
「ええやんか。せっかくくれるゆうんに、断る方が失礼や」
そしてぱりん―と軽快な音を立てて煎餅を頬張る。
「京都まではまだまだあるんやろ?」
「ああ」
「なら腹ごなしや」
ご機嫌に煎餅を頬張る鬼同丸に、高遠はスッと手を出した。 鬼同丸は嬉しそうにその掌の上に煎餅を置いた。
「違う」
「へ?煎餅やのうて?」
「時計だ」
「あー、そかそか」
ヘラリと笑いながら鬼同丸は時計を渡そうとした。
「……ありゃ?」
「…どうした?」
「いや……ありゃ?」
着物のありとあらゆる所に手を突っ込むが、目当てのものが出てこない。 途端に鬼同丸の顔が青ざめる。
「鬼同丸…お前まさか」
高遠の顔が冷ややかになる。 それでますます青ざめる。
「どないしょ…さっきまで持ってたんや!ほんまに大事に握ってたんに…」
「だから無くすなとあれほど言ったんだ!!」
「…ほんまにかんにん」
「もういい…お前に渡した俺が間違いだった」
見放すように冷たく言い放つ高遠を見て、居たたまれなくなった鬼同丸はスクッと立ち上がる。
「鬼同丸?」
「探してくる」
「探すってお前…」
「すぐ戻るさかい!ほんまかんにんや!!」
「鬼同丸!!」
高遠の声を背に、鬼同丸は走っていった。 ―が、それからしばらく経った頃、鬼同丸は肩を落とし、すごすごと戻って来た。
「…かんにん、高遠。あらへんかった」
「もういい。時計なんてまた買えば良いだけの話だ」
「せやけど…オレ」
―(高遠、あの時計ごっつぅ大事にしてたんに)
身体の横でギュッと拳を握り締め、俯く鬼同丸の足元にポタリと染みが出来る。
「…こんなことくらいで泣くな」
「泣いてへん」
―(自分がえらい情けないわ)
そして席に着き、膝を抱えて背中を丸める。 汽車に乗った最初の頃のテンションとは全く違い、鬼同丸はそのまま口を開こうとしない。 ガタンガタンという音だけが、二人の空間を包んでいた。
それからしばらくして、二人はある女性に声を掛けられた。
「おい、鬼同丸」
肘でつつかれ、鬼同丸は伏せていた瞳を開けた。
「ん…なんや?」
どうやら落ち込みポーズのまま、いつの間にかうたたねしていたらしい。
「お前に用らしいぞ」
「オレに?」
鬼同丸は顔を上げた。そんな鬼同丸の視線の先には―。
「あれ?婆さん」
「兄さん、先ほどはありがとうございました」
着物を着た白髪のご婦人が、丁寧にお辞儀をする。
「いや、もう具合は平気なんか?」
「お陰様でもうすっかり。その後もお話相手にもなって下さって」
「いや、オレも楽しかったし」
「それでこれ」
差し出した婦人の手に、ずっと探していた時計が乗っていた。
「あっ、これ!?」
「私、もうすぐ着くんで、降りる準備してたら足元に落ちていたのに気付きまして…。確か兄さんが大事に持っていたはずだと思いまして。それに京都に行くって言ってたからまだ降りてないと思いましてねぇ」
それで鬼同丸を探してくれていたらしい。
「ほんでわざわざ?」
「ごめんなさいね。すぐに気付けば良かったんですけど、足元に隠れてたもんで…」
「そんなん構わん。それよりおおきに!ほんまおおきに」
鬼同丸はその婦人の手を取り、何度も何度も御礼を言った。
「いやー、でもほんまに良かったわ」
またまた打って代わってテンションが高くなった鬼同丸は、満面の笑みだ。
「あのまま見つからんかったら、高遠、絶対に口聞いてくれんかったやろし」
「失礼なヤツだ。俺はそんなに心が狭くない」
「せやかて最初に無くしてしもたー!!ってゆうた時、ごっつぅ怖い顔やったで?」
自分が悪いクセに、棚に上がるのだけは得意な鬼である。
「けどあの婆さんがええ婆さんで良かったわ」
「…人に親切にすると、それが返ってくるというからな。きっとお前の行為が嬉しかったんじゃないか?」
「高遠…」
思いがけない高遠の優しい言葉に、鬼同丸は嬉しそうに微笑む。
「なあ…京都はあと、どんくらいやろ?」
「そうだな…もうすぐだ」
「そか」
「京都に着いたら…」
「着いたら?」
鬼同丸は高遠の言葉を反復する。 高遠はそんな鬼同丸を見て、優しく微笑んだ。
「『本家』に寄る前に、まずお前に時計を買ってやろう」
「えっ!?時計?別にええよ」
「京都に良い時計屋がある。この時計を売っていた店だが…。やはりお前も持っていた方がなにかと便利だ。特にお前はしょっちゅう飛び回っているからな、待たされる方が困る」
「…それはかんにんや」
「別に嫌味で言っているワケじゃない…それに」
「それに?」
再び高遠の言葉を反復する。
「今日はお前の誕生日だからな」
「え…えっ…ええー!!」
「驚きすぎだ」
「せやかて」
自分でさえ、誕生日と言うことを忘れていたのに、あの高遠が覚えていてくれたなんて―。
「先に『本家』に寄ってしまうと、今日はもう買いに出る暇が無いだろうからな」
どうやらそこまで考えていてくれたらしい―。
「おおきに…ほんまおおきに」
「いや。あと、さっきは誕生日だというのに辛い思いをさせて悪かったな」
その言葉に鬼同丸は慌てて両手を横に振った。
「せやかてあれはオレが全部悪いんやし」
そしてもう一度笑顔になり、高遠を見つめた。
「高遠…おおきに。ほんまに、おおきに」
そんな鬼同丸の頭に優しく手を置き、ポンポンっと叩いた。
「そろそろ降りる準備をするぞ」
高遠は鞄を上の棚から取ると、その中に本をしまう。
「うん!せやな。もうすぐ京都やな」
鬼同丸は元気良く返事をした。
そして汽車は京都に到着した。 汽車の降車口からは、仲良く降りる二人の姿があった。 こうして鬼同丸の始めての汽車の旅が終了したのだった。
〜終〜
|