ギンギンと太陽が照り返す日中。
聖は荷物をどさっと置いて汗を拭き取ってから、ペットボトルの水をゴクゴクと飲み干す。
「ふぅ〜、あっつー。こう暑いといくらオレでも適わんわ」
飲んだ水分は直ぐに汗へと変わる。
分かってはいるが、水分を補給しないと脱水症状に陥るのも確かだ。
街は、アスファルトの照り返しも相成って、暑さ倍増。
聖の横を通り過ぎる人、行き交う人、それぞれ疲れ切った顔をして行き過ぎる。
梅雨が明けたばかりの東京―太陽が眩しい。
そんな日に、聖は新宿まで繰り出していた。
何故なら今日は弓生の誕生日。
腕によりをかけて大ご馳走を作ろうと、新宿くんだりまで来て食材を買いにきた。
もちろんプレゼントはとっくに用意はしてあるが、食材はその日でないと意味はない。
だが、苦労の甲斐あって目当ての食材を手に入れられ大満足の様子だ。このまま帰ってもいいのだが、まだ少し早い気がする―。
その時、聖はふとキョロキョロと辺りを見回し出す。
「そういや…」
確か最近読んだ雑誌に、有名なパティシエのお店が、今月初旬に新宿にオープンしたと書いてあったのを思い出した。
その店でしか食べられないと言うパティシエ特選のパフェを食べたいなあと思ったことも併せてふと思い出してみる。
しかも住所からするとこの辺りだったはず…。
「よっしゃー!次は店探しや〜♪」
降り注ぐ暑さなどなんのその、意気揚々と歩いているときだった。
聖の視界に愛しい者の姿がちらりと見えた。
どんなに人がごった返していようと、その者との距離があろうと間違えるはずなどない。
何故こんな所に―という考えなど持ち合わせていない聖は、その者に向かって声を掛けた。
「おーい!ユミちゃ…」
否、掛けようとした。だが、言葉は途中で飲み込まれた。
何故なら弓生は一人ではなかった。
隣にいるのは…女性。
二人は親しげに腕を組んで雑踏の中に消えていった―。
「ふー、あっちー!マジでもう閉めて帰ろうかな」
勤労意欲の全くない三吾は、恨めしそうに天を仰ぐ。
「大体毎年この時期は客が来ねえんだよな…」
―(さっさと閉めて、あの冷房の効いたマンションにでも遊びに行くか。んでついでにメシご馳走になって…。まあでも手ぶらじゃなんだから、たまにはビールでも買ってくとするか。つっても俺と聖がほとんど飲むんだろうけどな)
そんなことを考えて思わずククッと笑ったとき、目の前に人影が出来た。
―(珍しい。客か?)
「いらっしゃ…」
三吾が顔を上げるとそこに立っていたのは、今まさに想像していたマンションの住人の片割れだった。
「なんだ…聖かよ」
いつもなら周りの人が振り返るほどの大声で大騒ぎしながら来るのに、今日は気が付いたら目の前にいたものだから拍子抜けしてしまう。
「なんか冷たいモンでも差し入れに来てくれたのか?」
だが、返答は無い。その代わりに顔をくしゃっと歪める。
「おっ、おい!聖…どうした?」
想像もしていなかった反応なものだから、三吾は焦りながら立ち上がり、聖の顔を覗き込む。
「なにかあったのか?」
すると聖は渇を入れるかのように歪めた顔をパンッと叩き、三吾を見た。
そしてポツリと呟いた。
「…ユミちゃんが」
「弓生がどうした?弓生になんかあったのか?」
「…ユミちゃんが浮気した」
一瞬言葉の意図を読みとれず、三吾は無言になった。その数秒後―。
「えええーーーーー!!!」
三吾の声が新宿に響いた。
「…で、浮気ってどういうこった?説明しろよ」
場所は聖たちのマンション―。あの炎天下の中、立ち話はいくらなんでも酷だ。
喫茶店でも良かったのだが、買った食材が痛むかもしれん―という聖の主婦魂が、それを拒んだ。
「つぅかよ、俺はどうも弓生が浮気って…まだ信じれんねんだけど」
―(第一、コイツにしたってアイツにしたって、互いに一途じゃねぇか)
そのことはほんの少しコイツらと一緒にいるだけで分かることだ。
「オレかて最初は信じられんへんかった。せやけど」
聖の声が段々と小さくなる。
「あんな?実はさっき新宿でユミちゃん見掛けたんや」
「ああ」
「声を掛けよ思うたら、ユミちゃん女の人と居ったんや…。しかもご丁寧に腕まで組んどった」
「………見間違いじゃねぇのか?弓生のソックリさんとかよ。ほら、世の中には3人自分とソックリさんがいるって言うじゃねぇか」
「ソックリでも何でもオレがユミちゃんを見間違えるわけないやろ!」
「じゃあドッペルゲンガーとか」
「ユミちゃんが見たら死んでしまうやろ!ユミちゃんを殺す気かい!」
落ち込んでいてもツッコミは冴えているらしい。
「あーもう!ええわ。それでオレ、気になって後つけたんや…ほら、違ってたら笑い話になるやろて」
「…で、どうだったんだ?」
「どうだったって……その」
聖は言葉を一端止めると、ほとんど聞き取れないくらいの声で呟いた。
「その女と一緒にホテルに入っていきよった」
「マジかよ…」
信じられないことを聞いたかのように三吾は驚いたが、すぐに、でもよ…と続けた。
「けどほら!ホテル内のレストランってこともあるだろ?そこでまあ…メシ食うとか」
「…メシ?」
「そうそう!もしかしたら仕事の依頼だったのかもしれねえし?」
「オレに内緒でか?オレなんも聞いてないで?」
鋭いツッコミに、三吾はうっと言葉を呑む。
確かに仕事の依頼だったら聖が一緒でもおかしくないし、内緒にするのは変だ―。
第一、腕を組んでホテルに行くだろうか―。
「決定的やったのはその次や」
「…その次って?」
更に嫌な予感を抱きつつ、三吾は続きを聞いた。
「ユミちゃん、フロントでキー貰っとった」
「………」
それは確かに決定的である。
ホテルに行き、キーを貰うというのはつまり…。
三吾はそれきり黙ってしまった聖をちらっと横目で見る。
聖はソファーの上で膝を抱えると、背中をどんどん丸める。落ち込んだ時のポーズだ。
ビールを薦めても―と言っても聖の家のビールだが、聖はいらないという風に首を横に振る。
しばらく無言で居た後、聖はポツリと呟いた。
「なあ…三吾」
「なんだ?」
「…やっぱりエッチするんなら、チチのでかいねーちゃんの方がええんやろか…」
ふざけているとしか思えない聖の問い掛けに三吾は思わず含んでいたビールに噎せる―。
だが、本人は至って本気である。
「えーっと……俺はなんて返答すりゃいいんだ」
だがどうやら別に答えが欲しかったわけではないらしく、聖は自分で続けた。
「考えてみれば普通はそうやな…誰も好き好んで男となんかやりたないよな…」
「…聖?」
「元々オレもユミちゃんもホモやないんやし…。せやからユミちゃんがやっぱり女性の方が良いって言われたら、オレなんも言われへん」
益々背中が丸まっていき、再び黙り込んでしまう聖。
三吾はそんな聖をしばらく見つめていたが、ギュッと拳を握り締めると、聖の頭をポコンと叩いた。
「あだっ!いきなしなんすんねん!」
「らしくねえぞ!!」
その言葉に聖は殴られた頭を抑えながら顔を上げる。
するとそこには立ち上がり、仁王立ちしている三吾が居た。
「………らしくない?」
「ああそうだ。いつものお前らしくドーンと構えてればいいだろ?」
「ドーンと構える…」
「大体自分が落ち込むと弓生の方がもっと落ち込むから絶対に落ち込まないって断言してたのはお前だろ?」
「そういやそうやな…」
「そうそう」
「三吾、お前たまにはええこと言うな」
「たまにだけ余計だ」
聖はなにか吹っ切れたように、あははと笑った。
「せやな!それにこの前観た昼ドラでも、結局最後は本妻の元に戻って来てたしな!」
―ここでなぜドラマが出てくる。しかも昼ドラ。
というよりさすが単純大魔王だ。もう立ち直ったらしい。
「それに例えユミちゃんがオレより好きなヤツが出来てしもても、その分オレがユミちゃん大好きやーって大声で…」
「さっきからなに下らないことを話しているんだ…」
「「……えっ!?」」
二人の会話に入ってくる第三者の声に、聖と三吾は振り返った。
するとそこにいたのは―。
「ユユユ、ユミちゃん!?…いつからそこに?」
明らかに動揺している聖と、涼しい顔でキッチンで珈琲を飲んでいる弓生。
弓生は新聞から目を離すと、聖を見た。
「胸の大きい女性がどうとか言っている時だ」
「そんな前から居ったんか?なら言うてくれても…」
気恥ずかしそうに、おずおずと声を掛ける聖。
「声を掛けたが、二人とも話に真剣で聞いていなかったようだが?」
「あっ………それはかんにんや」
叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とす聖。
弓生はフウッと小さく溜息を吐いた。
「別に構わんが…。だが俺がお前を嫌うとか本妻の元に戻るとか、どういうことからそんな下らん話題になったんだ」
「それは………」
ちらっと三吾を見る聖。
三吾は俺に振るなよ―という感じで目を逸らした。
「言え、聖」
口調が怖いものだから、聖は先ほどの話をかいつまんでする。
弓生はそれを最後まで黙って聞いていた。
そして―。
「…あの場面を見ていたのか」
「ああ、せや」
「そうか…」
弓生は小さく溜息を吐いた後、僅かに顔を歪ませる―。
と言ってもまあ一瞬のことだが。
「言い訳するつもりはないが、俺の話を聞く気はあるか?」
「話?」
「ああ。聞く気があるなら話すが?」
弓生の問い掛けに聖は小さく頷いた。
「…聞く。せやからホンマのこと教えてや」
「…分かった」
そう呟いた後、弓生は三吾をチラリと見た。
それでなんとなく空気を読んだ三吾は立ち上がった。
「じゃ、俺帰るわ」
「ええっ!帰るんかい?メシ食ってないやんか」
「これはお前らの話だしな。俺は居ない方がいいんじゃねぇかと思って…」
「そない気ぃ使わんでもええのに…。ほなちょい待ち!せめてこれ持ってけや」
三吾を玄関で引き留めた聖は冷蔵庫からタッパーをいくつか取り出して、そこらへんにあった紙の手提げ袋に入れて手渡す。
「昨日の残りで悪いけど、こっちがロールキャベツでこっちがジャーマンポテトで…。チンすれば直ぐ食えるで」
「へぇ、旨そうだな…。サンキュー助かった」
「こっちこそおおきにな」
「いや別に…。けどお前もちゃんと弓生の話を聞けよ」
「…うん、分かっとる」
「喧嘩するなよ」
「するわけないやろ」
「あと…明日でも良いから、どんな理由だったのか俺にも報告しろよ。気になって仕方ねぇ」
ポリポリと頭を掻きながらの三吾の言葉に聖がプッと吹き出す。
今日始めてみた聖の笑顔だ―。
「…お前、ホンマ世話好きなやっちゃ」
「るせー、大きなお世話だ。けど、いいな?」
「おぅ、分かっとる…またな」
三吾を見送り玄関が閉じたのを確認してから、聖はリビングに入った。
入る前に大きく2〜3回深呼吸をしてから―。
既にキッチンからソファに移動していた弓生の隣りに腰掛け、聖は身体ごと弓生の方を向いた。表情はまるで戦地に赴く恋人を見送るような真剣そのものだ。
「なら…話してや」
「ああ…まずお前がまさかあんな所にいるとは思わなかった」
「買いモンしてたんや」
「そうか…だが確かにあれを見られたら誤解もされるだろうな」
「…誤解?」
その言葉に聖は目を丸くする。
「ああ、誤解だ」
「どう誤解なんや?」
「実は彼女は盲目だった。そして新宿の街で道が分からなくなってしまったらしく立ち往生していた。今日は一段と暑かったからな。道行く人は皆彼女が困っていると分かっていながら無視していた。そんな人を見付けたらお前ならどうする?」
「そりゃもちろん声を掛けるに決まっとるやろ!それでその人の行きたい場所に連れてったる」
鼻息荒く答える聖に、弓生はフッと顔を綻ばせる。
「お前ならそう言うと思った。だからもし俺までもがその女性を見捨てたと知ったらお前は怒るだろうなと思った」
「うん、せやな。怒るやろな」
「だから声を掛け、自分の旦那と待ち合わせしているというホテルに連れてってやった。人が多く歩きづらそうだったから腕も貸した」
「…そうなんか」
「ホテルで彼女の代わりにキーを受け取り、ロビーで待とうとした時にその人の旦那が来た…というわけだ」
「なんや…そうやったんか」
聖は真剣な表情から、疑って申し訳ないという表情へと変化した。
「その場面を見てお前が誤解したというわけだ…。最後まで見ていれば妙な誤解もしなかったのにな」
「…そんなん見れるわけないやんか。オレ、ごっつショックやったし傷ついてしもたし。…分かるやろ?」
「そうだな…確かに逆の立場だったら俺も誤解していたかもしれんな」
聖は顔を綻ばせ、安心したかのような笑顔でソファに凭れる。
「そっかー!そうやったんかー!ならユミちゃんええことしたんやな」
「良いこと?」
「せや!さすがオレのユミちゃんや!」
満面の笑みでニコニコと弓生を見つめる聖。
弓生もほんの少し顔を綻ばせる―。
だが再び真剣な表情で眼鏡をスッと上げる。
「褒めて貰えて嬉しいが、だがさっきお前が言ったことでひとつだけ訂正して貰いたい」
「訂正?なんや?オレなんか言ったっけ?」
弓生は聖の肩を抱くとグイッと引き寄せた。
「俺はお前が男だからとか考えたことは一度もない。そんなこと関係なく、俺は戸倉聖というこの世でたった一人のお前を選んだんだ」
その言葉に聖は瞳を潤ませる。
「ユミちゃん…。オレごっつ嬉しい…むっちゃ幸せや」
聖はフワリと笑った。
そんな聖を弓生はそっと抱き締める。
すると弓生に抱かれている聖が、あっ…と何か思いだしたかのように声を漏らした。
「どうした?」
弓生は聖の顔を覗き込んだ。すると聖は満面の笑みで笑った。
「なんやバタバタして言うの遅れてしもたけど…」
「なにをだ?」
「誕生日おめでとう、ユミちゃん」
「ああ…そう言えばそうだったな」
「なんや?自分の誕生日忘れとったんかい?」
「お前が覚えていてくれるからそれでいい。俺まで覚える必要はない」
「なんやそれ?どういう理屈や?」
だが、まっええわ、と聖は一人納得する。
「ユミちゃん。今までもこれからもずっとずっと大好きやからな」
顔いっぱいで現した笑顔と共に贈られた言葉に、弓生は珍しく目尻を下げ、口の端を上げて微笑んだ。
「最高のプレゼントだな」
そう言いながら弓生は聖に口付けを落とすのだった。
〜終〜
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