「おーい!高遠ーっ!!」
天気の良いある日の昼下がり。
庭にいた高遠は、屋敷中に響き渡るかのような大声で名を呼ばれ、不機嫌そうに振り返る。
「お前か…なにか用か?」
「またそないな言い方しよってからに…まあええわ。これやる」
呆れ顔の鬼同丸から、包みを半強制的に押し付けられる。
「…なんだ?」
「ええから、やる」
頑固に言うものだから、高遠は押し付けられた包みをガサガサと開ける。
鬼同丸は自分があげたものなので中身を知っているくせに、「なんやろなー」と言いながら興味津々の顔で覗いている。
そんな包みの中から出て来たのは―。
「…櫛」
「せや!綺麗やろ?」
「だがこれは―」
―女物じゃないのか?という表情で鬼同丸を見返すが、鬼同丸は不思議顔で逆に見返す。
「言うとくけど、男もんやで?緑やんか」
確かに深い緑色の櫛ではあるが、青や緑が男物だと思っている考えが子供そのものである。
「それな?さっきじーさんの使いで都に出た時に見付けてな、絶対高遠に似合うと思たんや。せやから思わず買うてしもた」
にこやかに説明する鬼同丸だったが、受け取った側の高遠の反応は、自分が予想していたものとは微妙に違った。
だから鬼同丸は心配そうな表情で問いた。
「気に入らんかったか…?」
寂しそうな目で見つめられ、高遠は思わず手に握っている櫛に力を込める。
「いや…せっかくだから貰っておこう」
「よかったー!ほな、オレじーさんとこ行ってこれ渡して来るな?遅うなってしもたからじーさん心配してるかもしれん」
―(晴明様よりも先に俺を探してくれたのか?)
高遠の視線は真っ直ぐに鬼同丸を捉える。そんな高遠に満面の笑みを贈る鬼同丸。
その瞬間、高遠は今まで味わったことのない感情を抱いた―。
それは、『愛しい』という感情なのだが、この時の高遠には分からない。なのでその代わりに優しく微笑んだ。
「…なら早く行くことだな」
「うん、ほなな」
鬼同丸は包みを振り回しながら、脱兎の如く走り去っていった。
獣が走るようなものすごい勢いだ。それを見送った後、高遠は手にした櫛をもう一度見据え、ハッと振り返る。
―(そう言えば礼を…礼を言っていなかった)
鬼同丸の姿は既に全く見えない。
だがこのままでは気持ちの収まらない高遠は、鬼同丸の部屋を訪ねた。
―が、部屋には姿が見えない。それならまだ晴明様の所に居るのだろうかと思い、晴明の部屋も訪ねたが、部屋には晴明しか居なかった。
晴明に一礼し、部屋を出た高遠はその後も鬼同丸を探し回った。
だが、広い屋敷中いくら探しても鬼同丸が見つからない。しかも皆、口々に言うことは、『さっきまでそこにいたんだけど…』だった。
高遠は完全に礼を言うタイミングを逃してしまったようだ。
「何故あいつはじっとしていないんだ」
困った高遠は、再び晴明の部屋を訪ねた。
「どうしたね?高遠」
「何度も申し訳ありません…。実はお訪ねしたいことがあるのですが…」
「なんだい?」
優しく微笑んでくれる陰陽師に、高遠は静かに問いた。
「あのものが何処にいるか…。ご存知ありませんか?」
「あのもの?…鬼同丸のことかい?」
「はい」
「それならちゃんと名前で呼んでおやり…その方が鬼同丸もきっと喜ぶであろう」
「名前…ですか?そんなことくらいで喜ぶでしょうか?」
考えてみると、今まで鬼同丸を前にして名前を呼んでやったことは、数えるほどしかなかった。
今さらながら気付いたことに困惑している高遠に、晴明は優しい笑みで続ける。
「高遠。名前を呼ぶということは、その者が其処に存在しているということだ―。それだけで充分ではないのかい?」
「………」
「高遠もそうであろう」
心を見透かされたようで、高遠は思わず言葉に詰まる。…ややあって。
「…あの者。いえ、鬼同丸も同じでしょうか」
「ああ、きっとそうだよ」
笑顔で見つめられ、名前…と高遠は口の中で呟いた。
「そう言えば鬼同丸を探していたね」
晴明に言われ、高遠は静かに頷いた。
「…はい」
「先ほど裏口から外に出ていくのが見えたよ」
「裏から…ですか。ありがとうございます」
深々と礼をした高遠は、言われた通り裏口へと回った。
裏口から延びている路地は、賑やかな繁華街に向かう道と下町へと向かう静かな道とに別れている。
どちらだろう…と高遠は思ったが、違ったらまた戻ればいいと思い、左側の静かな道へと向かった。
すると屋敷から少し離れた裏路地で野良猫に魚をあげている鬼同丸の姿を見つけた。
「鬼同丸」
「ぅわっ!」
鬼同丸は、突然背後から名を呼ばれたものだから、驚いて振り返る。
「こんな所にいたのか…探したぞ」
「高遠か…ビックリしたわ。どないしたん?」
「いや…こんな所でなにをしているのかと思ってな」
あぁそか、と呟きながら持っていた魚を全て野良猫にあげ、鬼同丸は笑顔で立ち上がった。
「さっき買いもんの途中で、こいつらにあったんや。腹減っとるみたいやから、後でなんか貰ってきてやるから此処で待っとりって言ったからな。屋敷で食料調達してたんや」
「そうだったのか…」
―(だから屋敷中を探しても姿が見えなかったのか)
「そういえば高遠こそ、オレになんぞ用か?」
笑顔で問われ、高遠は一瞬躊躇うものの、先ほどの櫛を見せた。
「これを貰った礼をまだ言ってなかったからな」
「礼って…律儀なヤツやな…?っちゅうか、もしかしてそれだけでわざわざオレを探してくれたんか?」
「…ああ、そうだ」
「なら、こっちこそおおきに」
ふわりとした温かな笑顔で見つめられ、高遠は一瞬言葉を失う。
「…お前こそ律儀だな」
そうかぁ?と小首を傾げながら、鬼同丸はうん、と頷いた。
「探してくれたこともそうやけど…今、オレのこと名前で呼んでくれたやろ」
「…ああ」
「ごっつう嬉しかった…ほんまおおきに」
見ている方が眩しいくらいニッコリと顔全体で笑う鬼同丸。
本当だ―晴明の言った通りである。
名前を呼んでやっただけでこの鬼はこんなにも喜ぶのか―。
極悪非道で悪名高かった酒呑童子のイメージとは全く違う、よく笑う無邪気な笑顔―そして素直な言葉。
―愛しい
高遠はそっと口の端を上げた。その途端―。
「あっ!」
突然上がる鬼同丸の声に、高遠は眉間に皺を寄せる。
「…なんだ」
「今、高遠笑ったやろ?もう一回!もう一回笑てみせて?」
くいっと高遠の着物の裾を引っ張る鬼同丸―。まるで子供のようだ。
「…冗談じゃない!第一俺は笑ってなどいない」
そんなこと言っても後の祭りだ。鬼同丸は見逃してはいなかったのだから。
なのでまたくいっと着物の裾を引っ張った。
「えー、笑ってたやんかー!な?な?もういっぺんでええから」
「離せ」
くいっくいっと引っ張る鬼同丸から、なんとか裾を取り戻そうとする高遠。
端から見たら、駄々をこねる子供と親の微笑ましい光景である。
「鬼同丸、いい加減にしろ」
「ええやんかー!せやかてオレ…高遠の笑た顔、好きなんや」
思いもしなかった言葉に、高遠の手が止まる。
―(俺の…笑顔?)
「さっきかて笑てくれたやろ?オレがこの後じーさん所に行くゆうたとき」
―(覚えて…いたのか?)
「なあなあ?高遠?」
「…そんなに見たいのか?」
「うん!見たい見たい!」
子供のように笑顔で何度も頷く鬼同丸。
高遠はそんな鬼同丸がとても愛しく思い、つい意地悪を言ってみる。
「なら…これからは小言を言わせないことだな」
「えー!それは高遠が勝手に言うとるだけやないかー」
言われる理由は鬼同丸側にあるにせよ、そんなことは知ったこっちゃないという素振りで、予想通り口を尖らせた不満げな顔で文句を言う姿に、高遠は微笑する。
「あっ…」
「なんだ?」
「ううん…なんでもあらへん」
鬼同丸は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見据えてから、高遠は踵を返した。
「じゃあ行くぞ…鬼同丸」
その言葉に、鬼同丸は大きく頷き、後に続くのだった。
永遠に続く空の下。
あの時描いた思いを―君に話そう。
いつか―この空の下で―
〜終〜
|