鬼同丸が大江山を出て晴明の屋敷に来てから一週間ばかり経った日のこと。
「朝か…早よ起きんと」
鬼同丸は布団の中でもそもそと動いた。
寝たいときに寝て起きたいときに起き、着の身着のままお気楽ご気楽な生活を送っていた鬼同丸にとって此処での暮らしは正直合わなかった。
鬼同丸は起き上がると人差し指でカリカリと頭を掻きながらのろのろと視線を動かした。
視線の先にあるのは、高遠が用意してくれた服―
ちゃんと着替えないと高遠からの小言が始まる。現にここに来てから朝は毎日高遠の小言で始まるのだった。
―(大体あいつ、小言言い過ぎなんや!いっつも怒ったような顔をしてオレのこと睨むしなー!)
高遠が怒る原因が自分にあることを鬼同丸は気付いていない
―(それになんで寝るときと起きるときにいちいち着替えなならんねん…大江山んときは同じやったで?)
鬼同丸はひとしきりぼやいてから立ち上がる―と、髪を結っていた紐がプツリと切れた。
すると引力の力で鬼同丸の肩にふぁさ…と髪が落ちてくる。
―(あー、切れてもうた…結構使ってたからな)
鬼同丸はよいしょ…と呟きながら切れた紐を拾うと、それを懐へと閉まい込んだ。
戸を引き開けると部屋には既に高遠が居た。
鬼同丸は高遠と目を合わせないように―と、そっと部屋に入り、いつもの定位置に置かれている自分の膳の前へとあぐらをかいて座る。
すると案の定、高遠から怒ったような声が飛んできた。
「鬼同丸!なんだ、その格好は!!」
「あ〜はいはい、寝間着やろ?言われると思たんや…分かったわ、着替えてくるて」
―言われると思ったのなら何故着替えて来ないのだろう、というツッコミはこの際おいておくとして、小言が続くと朝飯の時間も遅れるので、『食』のためにも素直に応じ、立ち上がろうと片膝を立てた。―が、高遠が呼び止める。
「違う!まあ寝間着もそうだが、なんだ?その頭は」
「頭?」
言われてそっと髪に触れると、先ほど紐が切れたので結わずにそのまま来たことを思い出す。
「あ〜これな?実は起きたとき括ってた紐が切れてもうたんや…ま、別にええやんか」
「よくない!そんなだらしのない格好でこの屋敷をうろうろするな!」
「朝からそないガミガミ怒らんでもええやろ?大体高遠かて髪垂らしてるやんか!オレだけ言われるなんて不公平やわ…」
「俺はお前みたいに面倒くさくて垂らしているわけではない!」
面倒くさがっている事実を指摘され、鬼同丸はむっと口唇を尖らせる。
「せやったらオレがどうゆう格好してようと別にお前には関係ないやんか!」
「確かに俺には関係ないが、晴明様に迷惑が掛かる―お前がだらしのない格好をしたり、常識を外れた行動をとったりすると晴明様に迷惑が掛かることくらい、いい加減に覚えたらどうなんだ!」
そのことを指摘されると鬼同丸には返す言葉がない。
けど―と反論の言葉は口にするものの、言葉が後に続かない。
確かに盗賊を経て鬼になり、鬼になってからは大江山の頭領として自由奔放に生きてきた鬼同丸にとって、ここでの暮らしは正直窮屈だ―そんなこと高遠だって当に気が付いている。
けれどもだからこそ、高遠はある程度の常識を鬼同丸に持って欲しかった。この屋敷で彼らの存在を良く思っていない者は少なからず居る。そう言う者たちからの冷ややかな視線や言動で辛くなるのは鬼同丸本人なのだから―
なによりもこれからの長い長い年月、二人切りで過ごすことになると分かっているから―
鬼同丸は高遠をチラッと上目遣いで見た後、立ち上がると小さく呟いた。
「分かったわ…取り敢えず着替えてくる」
鬼同丸は部屋を出ていこうとした―が、そんな鬼同丸の腕を掴み、高遠は歩き出す。
「着替えるのは後で良い…まずはこっちに来い!」
「えっ!?なんや?高遠…っ?」
引き離そうにも高遠の力は強く、振り解くことが出来ない。
「ちょっ…離せや!」
そして振り解けないまま井戸の傍まで連れて来られる。
「なんなんや、一体……わけ分からんわ」
「いいから座れ!」
庭に置いてある椅子を鬼同丸に差し出す高遠。
なにか文句を言ったら食ってかかられそうな顔だったので、鬼同丸は素直に応じることにした。
すると高遠は鬼同丸の髪にそっと触れ、嘘みたいに優しく語り掛けた。
「せっかく綺麗な髪なんだから手入れをしないのは勿体ない」
そんな高遠の言葉に驚きつつも鬼同丸は応じる。
「けどメンドくさいし…」
「結うのが面倒なら俺が結ってやる」
「へ?」
「自分では出来ないのだろう?」
そう言うと、鬼同丸の髪を梳かしだした。
わけが分からないのは鬼同丸の方だ。何が一体どうなっているのか―
鬼同丸の周りに『?』マークが飛び交う中、少しクセのあるサラリとした鬼同丸の髪先を持ち上げながら高遠は呟く。
「先が少し痛んでいるな…少し切っても構わんか?」
「切ってくれるんか?ほな、頼むわ」
「分かった」
そう言うと井戸から水を汲み、鬼同丸の髪を濡らす。
「切っている時に動くと変になる…動くなよ?」
「うん、分かった」
前髪から滴り落ちる雫を指で弾きながら鬼同丸は静かに身を任せる。
「…素直だな」
「前に切って貰ろてる時に動いて、えらい怒られたから」
「大江山の頃か?」
「うん、そや…いつも茨木が切ったり結ったりしてくれた…」
「そうか…」
聞こえてくるのは鳥の囀りと高遠が自分の髪を切る音だけ―
静かな時が二人の間を流れる―
考えてみたら、この鬼とこうしてゆっくり話すのは初めてだったかもしれない―
髪に触れられるのも、なぜか少しもイヤじゃなかった。
「終わりだ…」
その言葉に鬼同丸は肩に付いた髪を払いながら立ち上がり、高遠に礼を言う。
「おおきに」
「髪は明日から俺が結ってやる」
「うん…ほなお願いするわ」
「別にお前のためじゃない…晴」
「晴明じーさんのためやろ?そんくらい分かっとる」
「………」
台詞を取られ、高遠は気まずそうに目を逸らした。
そんな高遠を見て、鬼同丸はあはは―と笑った。
「なにがそんなにおかしい」
「だってお前おもろいんやもん!いっつも無表情やからどんなヤツかと思たけど、結構おもろいな!」
心外だ―というように高遠は眉を顰めるが、そんなこと気にしちゃいない鬼同丸は言葉を続ける。
「そや!高遠、お前も少し笑った方がええで?」
「…笑う?」
「そや、楽しいときは笑った方がええ、嬉しいときも笑った方がええ」
鬼同丸はそう言うと、再びふわりと笑った。
「お前っていつも怒ったような怖い顔しとるやん?」
「…元々こういう顔なのだ。怒っているわけではない」
「せやけど、オレと話す時はいつも此処に皺、寄せてるやろ?」
そう言いながら鬼同丸は高遠の眉間をつんっとつつく。
―(怒らせているのはお前だろう)
高遠はその言葉をそのまま呑み込む。すると黙ったままの高遠の顔を鬼同丸が覗き込んだ。
「高遠?どないしたん?」
高遠はなにか言おうとした。―が、良い言葉が思い付かない。
何か言いたげに口唇を動かしながら、小首を傾げ自分を覗き込む鬼同丸を見たが、ついっと視線を逸らした。
「いや、別に…片付けてから行くから先に食事に行くといい」
「手伝おか?」
「大丈夫だ、構わない」
「なら…先行って高遠のメシよそうとるな?」
そう言ってパタパタと忙しなく駆けていく鬼同丸。
そして着替えようと自分の部屋へと向かう廊下で晴明とバッタリ会う。
「おはよう、鬼同丸。何を急いでいるんだい?」
「あっ!じーさん…おはようさん!オレ、メシまだやから食ってくるな」
「ああ、お待ち…鬼同丸」
「なんや?」
「髪を少し切ったのか―ほう、似合うではないか」
「ほんまか?これな、高遠が切ってくれたんや…あと、結ってもくれたんや」
「ほう…高遠が」
「そや!」
「良かったな、鬼同丸」
優しく微笑む晴明に鬼同丸は満面の笑みで答えた。
「うん!」
ほな!と手を振り、笑顔で廊下を駆けていく鬼同丸の後ろ姿を、晴明は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
片付けが終わった高遠が食事の部屋に入ると、既にそこには寝間着からきちんと着替え終わっていた鬼同丸の姿があった。頬杖を突きながらボーっと明後日の方を見ていた鬼同丸だったが、高遠の姿を認めると一気に笑顔になる。そして鬼同丸の膳には全く手が付けられていなかった。
「まだ食べていなかったのか?」
「うん、高遠を待っとった」
「俺を?」
「うん」
鬼同丸は嬉しそうに頷くと立ち上がり、笑顔で近付いてきた。そして、自分の髪にそっと触れた。
「なあなあ高遠!今、そこでじーさんに会うたんやけど、これな、じーさんが褒めてくれた」
まるで先生に褒められたことを親に話すかのような嬉しそうな笑顔で高遠に報告する。
すると高遠は鬼同丸の頭に手を乗せ優しく撫でた。
「そのことを言うために待ってたのか?」
「うん、そやで」
笑顔で頷く鬼同丸。その瞬間、何とも言えぬ思いが高遠の全身を走った。
「晴明様に褒められたのか?」
「そや!」
「そうか…よかったな」
「うん!ほんまおおきにな、高遠」
満面の笑みで礼を言われ、高遠はつられるように微笑んだ。
鬼同丸がここに来てから初めて見る微笑みだった。
「高遠?」
自分の笑みを不思議そうに見つめる鬼同丸に、高遠は素っ気なく接した。
「嬉しいときは笑った方がいいと言ったのはお前だろう」
「ほな高遠…今、嬉しいんか?」
直球で質問され、高遠は返答に困る。鬼同丸はそんな困惑した表情の高遠をきょとんとした顔で見つめたが、また直ぐにふわりと笑顔になる。
「高遠…ええな!やっぱり笑うた方がええよ!」
笑う―ということなど滅多になかった高遠。
だが鬼同丸の脳天気な笑顔につられたのだろうか―
複雑に思いつつも再び鬼同丸に笑みを返す。
「お前の脳天気さが少し感染っただけかもしれんな」
「なんやそれー…けど、それでも構わん」
鬼同丸が口を尖らせた―が、直ぐに笑顔になり高遠を見つめる。
―笑顔は伝染するもの
生まれて初めて知った感情に戸惑いつつも高遠も微笑み返した。
このときが二人で微笑み合った最初であった。
そして二人で過ごす笑顔の人生の最初の刻が刻まれた瞬間だった。
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