時は1870年―明治3年、9月某日。
この日、日本中を揺るがす出来事が新聞の一面を飾った。
≪今ヨリ平民苗字差許サレ候事≫
所謂、歴史上有名な四民平等―
士農工商の身分制度を廃止する目的で、農民・町人が苗字をもつことを許可された。
そしてこのことは当然、高遠と鬼同丸にも関係してくることだったのだ。
東京郊外にある見晴らしの良い一軒家―。此処が今、高遠と鬼同丸が仮住まいしている家である。
日暮れ時、『本家』から戻った高遠がカラカラと玄関の戸を引き開けると、部屋の中から朗らかな声が届いた。
「お帰り〜、高遠」
「あぁ…ただいま」
絣の着物に袴姿の鬼同丸が夕飯の支度をしながら振り返る。
「外、寒かったやろ?もうすぐメシも出来るさかい、早よ着替えて座って待っといて?」
あぁ…と小さく呟いた高遠は、言われた通り着替えようと部屋へと向かおうとした―が、何か用があるのか台所で食事の支度をしている鬼同丸に近付いた。そのことが気配で分かった鬼同丸は火の調節をしながら高遠に背を向けたまま話し掛ける。
「今日は9月なんに、えらい冷えたなぁ…それで『本家』はなんの用やったんや?」
「鬼同丸、そのことで少し話がある」
「話?ほな、ちょっと待ってな?せや!今日な、少し冷えるから湯豆腐にしたんや。あとは美味そうな秋刀魚が手に入ったから秋刀魚を焼いたんと、あとは栗御飯にお吸いもんや!どや?なんか秋の味覚って感じやろ?」
別に夕飯の献立を聞くために台所を覗いた訳ではない。相変わらず人の言うことを聞いちゃいない相棒に、高遠は静かに溜息を吐く―。まぁ、今に始まったことではないので慣れっこではあるが―。
「鬼同丸…俺は晩飯の献立を聞いている訳ではない。いいから少しこっちに来い」
「え〜、でもメシ食いながらじゃダメなんか?」
「いいから来い」
「けど途中やし…もうちょいやしぃ…」
「鬼同丸!」
無表情の低い声音できっぱりと名を呼ばれ、仕方なく調理中だった火を止め、腰で捲いているエプロンで手を拭きながら、すごすごと高遠の前へとやってくる鬼同丸。
これ以上駄々をこねたら高遠の雷が落ちることも長年の付き合いで分かっている。
だが、湯豆腐は丁度良い按配やったのにな〜…魚も焼いてる途中で火ぃ止めるんは美味ないんやけどな〜…という文句ももちろん忘れない。
「…で、話ってなんや?高遠」
取り敢えず身体の冷えを抑えてあげるため、熱い茶の入った湯呑みを高遠の前に置いてから鬼同丸は問いた。
高遠はその茶を一口、口に含んでから口を開いた。
「鬼同丸…『四民平等』の世の中になったのはお前も知っているだろう?」
「ん〜…そういや隣のおばちゃんがそんなようなこと言うてた気ぃするわ」
―これだけ話題になっているのに『そんな気がする』で終わりなのか?
だが、大して気にも止めずあっけらかんと答える鬼同丸に、高遠は呆れたように溜息を吐く。
そして手近にあった新聞を手に取った。
「いいからお前はまず新聞を読め!」
言い含めるように差し出すと、鬼同丸は「えぇやん、別に〜…オレ読むの嫌いやし〜」と口を尖らせる。
「鬼同丸…お前は少し世間のことに無頓着過ぎる!大体…」
「あ〜、分かった分かった!読むて…」
いつもの小言が始まりそうだったので此処は素直に新聞を受け取る鬼同丸。この辺は長い付き合いで心得たものだ。
ほんま高遠は直ぐ怒るんやから〜とブツブツ文句をたれながら一面に目を通すと、その新聞の一面には
【≪今ヨリ平民苗字差許サレ候事≫との布告とともに、士農工商の身分制度を廃止する】―等の内容が大きく取り上げられていた。
「今より平民名字差許され候事…」
デカデカと書かれた見出しを声に出して読む鬼同丸を確認してから高遠は付け加えた。
「まぁ恐らく来年辺りには最下層の『穢多・非人』を解放して、平民と華族、士族との結婚や職業、居住、土地売買などの自由も認められる世の中になるんだろう…まぁしばらくは形式上だとは思うが…」
へぇ〜っ…と感心するように高遠の話を聞いていた鬼同丸だが、はたと新聞から顔を上げる。―理解しているのかどうかは定かではない。
「で、これがなんかオレらに関係あるんか?」
相変わらず暢気な相棒に高遠は大仰に溜息を吐く。
「大ありだ、何を聞いていたんだ、この馬鹿者!つまり俺達も名を変えろ―と言うことだ」
「え〜、そんなん面倒臭いわ…オレは鬼同丸のままでえぇよ」
「これからの新時代にその名が通用すると思っているのか?それに今日、『本家』からも早急に名を変え、これからはその名で生きていけ―との通達があった」
「じゃあ、今日『本家』に呼ばれたんは、そのことやったんか?」
「あぁ、そうだ…それでお前はどうする?」
「どうするて…いきなりそんなん聞かれてもなんも思い付かんわ…」
「決められない場合は『本家』に頼んでも構わないそうだが―?」
「嫌や!それだけは絶対に嫌や!なんで『本家』なんぞに付けて貰わにゃアカンのや!そんなん地獄やわ…」
無気になって反論する鬼同丸―予想通りの相棒の反応に、思わず高遠は苦笑する。
「なんや?なに笑うとんのや?高遠」
「いや、別に」
すまして茶を飲んでいる高遠に鬼同丸はむーっと言う感じで口を尖らせる。―が、突然弾かれたように高遠の顔を見つめた。
「せや!オレの名前、高遠が決めてくれへん?」
「…俺がか?」
「うん、そや!オレ、高遠に付けてもろたら嬉しいし、そしたらその名前、一生大事にするから―せやから頼むわ」
満面の笑みで鬼同丸に見つめられた高遠は、フッと笑みを漏らす。
「お前がそう言うと思って考えて置いた」
「おっ!さすが高遠や!…で、なんて名前?」
身を乗り出して聞いてくる鬼同丸の表情からはドキドキ感が隠せないでいるようだ。
高遠は少し冷えた茶を一口啜ると静かに答えた。
「聖だ…戸倉、聖」
「とくら…ひじり?」
「あぁ、字はこうだ。戸の倉…聖は『セイ』と書いて聖だ」
手近にあった紙で『戸倉聖』と書いてやると、鬼同丸はその紙を目の前に翳し、穴が空く程じーっと見つめていた。
「戸倉聖か…うん!えぇ名や!」
「そうか?」
「うん!ごっつぅえぇ名や♪へぇ〜、聖か♪」
余程気に入ったのか何度も何度も自分の名を繰り返す。そんな鬼同丸を見て、高遠はフッと笑みを漏らす。
「気に入ったか?」
「あぁ、勿論や!聖って名前も、高遠が付けてくれたっちゅうことも、オレはみんな嬉しい」
「なら良かった…それと、『聖』という字には言霊がある。何があろうと名前がお前を守ってくれるだろう」
その言葉に、高遠―と呟く鬼同丸。そしてフワリと笑う。
「そんなん無くても平気やのに…高遠は心配性やな…」
「…お前ほどではない」
きっぱりと断言され、なんやそれ〜と口を尖らせる鬼同丸。
どうやら高遠が傷付いた時に見せる今にも泣き出しそうなあの表情は、本人は頭に無いらしい。
「でもそれ聞いてもっと嬉しゅうなった…おおきに、高遠」
「あぁ…」
「せや!高遠は名前、なんにするんや?どうせやったらお返しにオレが付けよか?」
「…お前が付けた名前でこれからずっと生きていく勇気は俺にはない」
なんやそれ〜、失礼なやっちゃな!―と再び口を尖らせる鬼同丸。だが直ぐに笑みが戻る。
「それで、ほんまは決めてあるんやろ?自分の名前」
「あぁ…一応な」
やっぱりな〜、高遠やもんな〜…とひとり納得しながら腕組みをしている鬼同丸。
「で、結局はなににしたん?」
身を乗り出して聞いてくる笑顔の鬼同丸に対し、高遠は静かに答えた。
「…弓生だ。志島弓生」
「しじま…ゆみお?」
「あぁ…字はこうだ」
言いながら先ほど戸倉聖―と書いた隣にサラサラとペンで書き示す。
へぇ〜と頷きながら鬼同丸はそれを見つめる。そして書き終えたのを確認すると、再び目の前に翳し、穴が空くほど見つめる。
「弓に生きる…か。へぇ〜…えぇ名やな!」
「そうか?」
「うん!えぇ名や…高遠にピッタリや!」
「…そうか」
「せやったら弓生やから、これからは…ん〜」
急に腕組みをしたかと思ったら、いきなり真顔で何か考え込んでいる鬼同丸。
今までずっと一緒に生きて来たと言っても、何を考えているのか分からないことが時々はあるこの相棒。
果たして今は何を考えているのかと思いながら、高遠は僅かに残っていた茶を啜ろうとした。―次の瞬間。
「よし!これからはユミちゃんや!」
お気楽脳天気な相棒の朗らかな声に高遠は思わず湯呑みを落とした。
途端―中に入っていた残りの茶が卓袱台の上に散乱する。
「あ〜ぁ、大丈夫か?高遠…やなかった、ユミちゃんは時々迂闊やからなぁ〜」
ブツブツ言いながら手早く卓袱台の上を片づける鬼同丸。
「…その呼び方は止めろ」
「へっ!?高遠をか?今更?」
―そんなはずはない
「違う!その……ちゃんとか言うヤツだ!」
「あ〜、ユミちゃんの方か!なんで?えぇやん、別に?」
「良くない!呼ばれる方の身にもなってみろ!」
モデル並みのスラッとした長身に美貌の鬼。滅多に変わることのない表情の持ち主。
何処から見ても非の打ち所のない者の呼び名が『ユミちゃん』では正直、浮かばれない―
「えぇやん〜別に。それにユミちゃんは顔が怖いんやから名前くらい可愛ゆうても変やないって!」
―そう言う問題では無い
「頼むから止めろ…鬼同丸。いや、聖!」
「じゃあユミちゃん、メシの支度の続きしてくるな♪待っといてや〜」
朗らかに『ユミちゃん』を繰り返しながら立ち上がる鬼同丸。
「だから止めろと言っているだろう!聖っ!!」
なんも聞こえへん〜と言う感じで食事を温め直している鼻歌混じりの鬼同丸と、珍しく声を荒げている高遠。
この夜、二人の争いは延々と続いた。
だがこの争いが、明治が終わるまで続くことを、この時の二人は未だ知る由もなかった。
〜終〜
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