此処は箱根―芦ノ湖を願望に聳え立つ一件の小さな旅館。
だが小さいながら、外見からは高級感が漂っている旅館。
聖と弓生にとって仕事以外で旅行に行くということは初めてだった。
それだけに聖は今日という日を心から楽しみにしていたのであった。
「うっわー、見てみぃ!ユミちゃん」
通された部屋から見える芦ノ湖とうっすらと見える富士山―見事なまでの山紫水明の眺望に、聖は感動の溜息を吐く。
「はぁ〜…凄いなぁ」
だが弓生は、仲居が煎れた茶をゆっくりと飲みながらそれに全く反応しない。
「ユミちゃん、見てみぃ!富士山やで」
「ああ、そうだな」
「ユミちゃん、見てみぃ!芦ノ湖も綺麗やで」
「ああ…そうだな」
全く心の込もっていない台詞に聖はむーっとする。
「ユミちゃん、見てみぃ!琵琶湖やで」
「ああ…そうだな」
「ユミちゃん!!」
聖は口を尖らせたまま弓生の前に座り、ドンッと机を叩く。
「箱根から琵琶湖が見えるわけないやろ?さっきからオレの話、聞いとるんか?大体なんで此処まで来て本なんか読まなあかんねん!」
そして目の前に置いてある饅頭を一口に頬張り、すっかり冷め切った茶をグビッと飲み干す。すると弓生はフウッと息を吐き、パタンと本を閉じた。
「だったら逆に聞くが、此処に来てから何回同じセリフを口にした?」
「へっ!?」
逆に問われ、聖はん〜っと指折り数える。
「2回くらい…かいな?」
「5回だ!」
低めの声音でピシリと言い切られ、聖は返す言葉がない。
確かに弓生の言うとおり、此処の部屋に通された途端、落ち着き無くありとあらゆるドアを開け、ひとつひとつに感動していた。そしてその度に弓生の名を呼び、手招きをしていた。
弓生も最初こそは聖に付き合っていたものの、富士山も芦ノ湖もしつこいくらい見せられ、さすがに限界が来たらしい。そこで無視を決め込んだ弓生は持ってきた本を取り出すと静かに読み出した。
そして最初の会話に戻るわけだ。
「まあ言われてみると確かにオレははしゃぎすぎてたかもしれん…」
反省をしたらしい聖は手を伸ばして急須を取ると、そこに熱湯を注いだ。
―(せやけどオレはユミちゃんと旅行出来ることがごっつぅ嬉しかったんや…。嬉しくて嬉しくて、ついはしゃぎすぎてしもただけやのに…)
聖はチラリと弓生を見た。目の前の人物は、涼しい顔で本を読んでいる。
―(それなんにオレの気も知らんと、ユミちゃんの阿呆)
聖は心の中で毒気吐きながら弓生の手元にある湯呑みに茶を注ぎ足す。それから空になった自分の湯呑みにも注ぎ足し、ズズッと音を立てながら啜る。
「…行儀が悪いぞ、聖」
本から視線を移さずに注意すると、聖はニヤリと笑った。
「なあ、ユミちゃん?」
話を全く聞いていない様子の聖は、弓生から本をかすめ取る。
そして本を取られ怪訝そうに顔を上げる弓生にニッコリと微笑む。
「せっかく来たんやから今日は本はお休みや!なんか他のことせな勿体ないで?」
そして閉じた本を渡すと弓生は受け取り、そのまま机の上へと置いた。
「確かにそうだな」
「今度読んだら没収やからな?」
本気でやりそうな聖の勢いに弓生はフッと笑みを漏らす。
「他のこととはどういうことだ?」
「せやな、やっぱり温泉言うたら風呂やろ♪背中流しっこしような」
ほいっ、と言いながら聖は弓生に浴衣を手渡す。
「なんかこうゆうの着ると『温泉』って感じやな?そう思わへん?」
聖は終始ご機嫌だ。
「そうだな…じゃあ入るか」
スッと立ち上がる弓生に聖は何故か急に戸惑い始める。何故だか今の今まで忘れていたことだが、一緒に温泉に来たと言うことは、つまりそういうことであって―。
「入るって…そこにか?」
聖が指を差したのは部屋にある露天風呂。
「ああ、そうだ。来る前に俺は部屋以外の風呂には入らないと言ったはずだ」
そうなんやけど…と聖は口ごもる。
「せやけどせっかく来たんやし、大きい風呂に入らんか?」
「くどいぞ」
大きい風呂ならば気恥ずかしさはないのだが、部屋にある小さい露天だと何故だか急に恥ずかしさが押し寄せてくる。
「もしかして―照れているのか?」
「ちゃうわ!!」
図星を指され、聖の顔が赤くなる。
「…何を照れてるんだ?今更」
「照れるわい!」
だが『今更』という弓生の言うとおりである。現に一緒に風呂に入る以上のことを数え切れないほどしているのだから―
「背中流しっこするんじゃないのか?」
弓生に問われ、恥ずかしさがついに頂点に達した。
「それはあとでええ!オレは、でかい方の風呂入ってくるわ!でかい方が温泉の醍醐味や!ほな!!」
そう言い残し聖は脱兎の如く部屋を出た。
「大体なんでユミちゃんは全然平気なんや?しれっと顔してからに……なんやオレばっか反応してアホみたいやんか」
芦ノ湖が一望できる露天風呂。
聖は胸から上を湯船から出し、頭に乗せたタオルをずらしながら先程から文句をたれている。
「オレかてユミちゃんと一緒に風呂入りたいわ……けど」
湯船にずるずると下がっていき鼻の辺りまで潜ると、ブクブクと気泡が上がってくる。端から見れば苦しそうだが、本人はケロッとしている。それよりも気になることがあるらしくて…
「三吾とか成樹やったら絶対照れることないのになー…。なんでやろー?なんでユミちゃんやとあかんのやろ…」
それはそこに愛があるかないかの違いであって―。
誰にでも分かる答えなのだが、自分のことにはかなり鈍感な聖は、そのことに全く気付かない。
「ユミちゃん怒ったやろか…絶対態度悪かったもんな…ああ〜、怒ってたら最悪やー」
聖は頭に乗せたタオルごと頭を抱える。しかも長湯をしてしまったため、のぼせてしまったらしい。
「ありゃ…あかん。あがろ」
クラクラとしてしまった頭を抑えながら聖は風呂から上がった。
部屋に戻ると、すっかり食事の準備が終わっていた。机の上に並べられた絢爛豪華な食事―しかも聖希望の追加料理まで注文してしまったので、机の上には並びきらない。―が、聖は嬉しいらしくキラキラと瞳を輝かせる。
「旨そうやなー」
考えてみたら、上げ膳据え膳というのは聖にはほとんど経験がない。満面の笑みを浮かべながら席に着くと、テラスにいた弓生が部屋に入ってきた。
「帰ったのか…風呂は気持ちよかったか?」
「うん、広くて気持ちよかったで」
「そうか―それにしても随分と長風呂だったな」
「ん〜、なんや色々考えてたらのぼせてしもたから庭で涼んでたんや」
「…考える?なにをだ?」
「まあ別にええやん、それよかユミちゃん…かんにんな?」
「…なにか俺に怒られるようなことでもしたのか?」
「そういうわけやないんやけど一応謝っとくわ」
「相変わらず面白いヤツだな」
弓生がフッと微笑する。どうやら先ほどのことで機嫌は損ねていないらしい。
―(よう考えたら一緒に風呂入るの断ったくらいでユミちゃんが怒るわけないて。なんや心配して損したわ)
あははと笑う聖の額に手を当て、顔を覗き込む弓生。
「ところでのぼせたのはもう平気か?」
「うん、もう平気や」
「そうか―それならメシを食うか?」
「うん!食お♪」
弓生が向かいの席に座るのを待ってから、聖は満面の笑みで微笑んだ。
「いっただっきまぁす!」
聖は美味しそうに料理にパクつく。
「旨!ユミちゃん、これ旨いで?」
パクパクと口に運ぶ聖の様子を見て弓生はフッと笑みを漏らしてから箸を手に取った。
それから色々な話をしながら食事を楽しんでいた二人。
そして食事も終盤に掛かった頃、小鉢を口した途端、ありゃ?と聖が声を漏らした。
「どうした?」
「ユミちゃんはこれあかんわ!ししとう入っとる」
「ならやる」
「中のししとうだけ食おか?」
「いや、いらん。もう腹いっぱいだ」
そう言いながら箸を置く弓生。
「もう終わりなんか?」
元々少食派の弓生。自分の分を食べきる前に腹がいっぱいになったらしい。だが、聖の胃袋は無限だ。
―(一体何処にそんなに入るのか一度調べてみたいものだ)
弓生が酒を口にしながらそんなことを考えていると、聖が再び、あっ!!と声を漏らした。
「今度はなんだ?」
「あんな?明日のことなんやけど、オレ大涌谷に行きたい」
「大涌谷?」
「うん!そこにな黒玉子ってあるんやけど、それ食いたい」
「それだけ食っているのに、まだ食い物の話が出来るのか、お前は」
弓生が呆れるのは当然だ―。自分の分は当然のことながら、追加料理も弓生が残した分も全て平らげたあとの聖の言葉だから―。
「ちゃうねん!黒玉子って1つ食えば7歳長生きするんやて!凄いと思わんか?」
「………」
「っちゅうことは2個食ったら14歳、3個食ったら21歳!なんと10個食うたら70歳も長生きするんや!画期的な食いモンやと思わんか?」
聖は感心するように頷くが、弓生は呆れたように溜息を吐く。
「…お前は1000年以上も生きていてまだ長生きする気か!大体そう言うものを食わなくても充分長生きしてきたと思うが?」
すると聖はちっちっと言うように指を立てて横に振った。
「ユミちゃん、分かっとらんなー?要は気持ちの問題や」
「…分かった。けど俺は食わんぞ?」
「あとはな、芦ノ湖も行きたい」
人の話を聞いているのかと弓生は言いたい。―が、聖は嬉しそうに続ける。
「ほんでな、スワンに乗りたい!寄り道してくれるか?」
「…一人で乗るなら寄ってやる」
なんや、つまらんなーと口を尖らせるが、考えてみたらスワンボートに乗る弓生も想像すると怖い。
「………ま、しゃーないか」
聖は納得するように頷いた。
だが、せっかくの弓生との初めての仕事抜きでの旅行。バッチリ下調べしたのも、突き詰めれば目一杯楽しい想い出を弓生と一緒に作りたい―という聖の気持ちの現れだと言うことが分かっている弓生は聖の頭をそっと撫でた。
「ん?なんや?」
「寂しいか?」
「なんで?」
「いや、お前に付き合ってやれないで」
「ほな、オレが寂しい言うたらユミちゃん一緒にスワン乗ってくれるんか?玉子食うてくれるんか?」
「………」
思わず黙り込む弓生。すると聖がプッと噴き出した。
「冗談や。ええよ別に、無理せんでも。それにオレはユミちゃんが一緒に居ってくれるんならそれだけでええんや」
聖が満面の笑みで微笑む。そんな聖が可愛くて、弓生は額にひとつ、口付けを落とした。
その日の深夜―余程気に入ったのか、弓生が部屋の露天を入っている時だった。
カラカラと戸が静かに開かれ、聖がひょいっと顔を覗かせる。
「ユミちゃん、やっぱり此処に居ったんか」
「どうした?なんか用か?」
「ちゃうけど…なあユミちゃん」
「なんだ?」
「その…オレも一緒に入ってええかな?」
その言葉に弓生はフッと笑みを漏らす。
「ああ、もちろん構わない」
すると、聖は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「ほな、お邪魔しまぁす」
ちゃぽっと音を立てながらゆっくりと入ると弓生の隣に移動する。
そして自分たちの頭上に輝いている月を指さした。
「あっ、見てみいユミちゃん!お月さんや」
「そうだな」
「綺麗なお月さんやな…そや!」
聖はじゃぁ〜んと言いながら、持ってきた徳利を弓生に見せた。
「風呂に入りながら一杯やろ思て持ってきたんや!丁度お月さんも見えるし月見酒なんて最高やと思わんか?」
「お前は夕飯の時にあれだけ呑んだのにまだ呑むのか…」
呆れたような口調に、聖は悪戯っ子のように微笑んだ。
「細かいことはええやん…呑むやろ?」
「じゃあせっかくだから貰おうか」
「ほんまか?せや、そうこなくちゃな!」
笑顔で弓生にお猪口を手渡すと、その中にトクトクと静かに注いでいく。
「貸せ、お前にも注いでやる」
「ええよ、手酌で…」
「いいから貸せ」
「うん、なら」
ほいと言いながら徳利を渡すと、聖の手の中のお猪口にも静かに酒が注がれていく。そしてぐびっと飲み干そうとしたとき、弓生がちょっと待て―と制止した。
「どないしたん?ユミちゃん」
「いや、お前に言いたいことがあって…」
一旦言葉を止め、小首を傾げる聖を見つめた。―そして。
「いつもありがとう、聖」
「…ユミちゃん」
思いがけない弓生の言葉に聖は一瞬目を丸くして驚いたが、笑顔で首を横に振った。
「ううん、ユミちゃんこそいつもおおきにな?」
「これからも宜しくな」
「オレこそ、これからも宜しゅう頼むな?」
ふわりと微笑む聖。それに答えるように微笑する弓生。
「じゃあユミちゃん…乾杯」
「乾杯」
笑顔で見つめ合う二人の間から奏でる小さな音に風が答えた。
月に反射して水面がキラキラと輝く―。
そんな黄金に輝く月の下で、二人の初めての旅行はこうして幕を閉じたのだった。
〜終〜
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