僕らの轍








道に咲く花々が、もうすぐやってくる暖かな春を感じさせるそんな時節。
新しい季節とともに、二人の鬼も新しい住処へとやってきた。




 春特有の風がリビングへと注ぎ込み、窓際に置いた観葉植物の葉を小さく揺らす。
 そんな穏やかで長閑な情景―。だがそれもあっという間のこと。
 ドタドタと賑やかな音を響かせながら、頭にタオルを巻いた土方スタイルの鬼が、先ほどから段ボールをせっせと運んでいる。力仕事は任せろと言わんばかり、自分の背の丈よりも高く積み上げた段ボールを持っては置き、持っては置きと何度か往復した後、んーと大きく背中を伸ばす。

「ほんま引っ越しっちゅうんは、なんべんやっても面倒やなあ」

 今まで数え切れないほど住処を移してきたが、面倒くさいのは変わらない。しかも生きている年数が増えれば増えるほど荷物が増えるものだから、仕方のないことだ。
 それでも慣れというものは怖いもので、文句を言いながらもサクサクと片付けをこなしていく。なんとかキッチンとリビングを終わらせ、自室を整理している弓生の部屋をノックした。

「ユミちゃん」

 ドアを開けると、弓生の部屋はほぼ片付け終わっていた。

「なんや、もう終わりそうやんか。ええなー」

 ええなーええなーと連呼しながら、本棚にきちんと並べられている本の背に指を掛けて引き出す。弓生はと言えば、段ボールに入った資料に目を通し、すぐに必要なものかどうか整理している所だった。

「俺は大して荷物はないからな。それよりなにか用か?」

 問われて、ハッと思い出したかのように、本を戻した。

「ああ、せやった。ちょっと休憩せえへんか?珈琲煎れるわ」

 チラリと腕時計に目をやり、もうこんな時間か―と呟いてから、弓生は頷いた。

「…そうだな」

 手にした資料を再び段ボールに戻し部屋を出た。


******


「ほぅ。随分と片付いたな」

 リビングをぐるりと見渡す。
 まだ部屋の隅に段ボールは積んであるものの、このくらいだったら差し障りはない。

「せやろ?やっぱりリビングとキッチンはすぐに使いたいからな。頑張ったわ」

 弓生の前に煎れたての珈琲を置き、自分はカップを持ったまま隣に腰掛ける。
 まさか引っ越して数時間後に煎れたての珈琲を飲めるとは思っていなかった。
 心の中でこっそりと感心してから、弓生はそっと珈琲に口を付けた。

「もうテレビも付くんやで。ほれ」

 プチッとリモコンのボタンを押すと、ウィン…と言いながら真っ暗な画面が明るくなった。そして賑やかな声が部屋に響き渡る。すると、まるでテレビが始めてきた家の子供のように手を叩いて喜んでいる相棒の姿が隣にあった。

「別にテレビは最後でも構わんだろう」

「ええやんか。コードとかアンテナとか出たままやと気になるんやもん」

 自分とは正反対の相棒の反応に、聖はズズッと行儀悪く珈琲を啜る。

「せや。なあ、ユミちゃん?悪いけど今日の晩メシは店屋物でもええか?」

「別に構わん」

「かんにんな。ほんまは引越祝いで御馳走作りたいんやけど、引っ越した日は片付けの他にもやらなあかんことぎょーさんあるしな、例えば挨拶とか……ああ!せや、挨拶や!!」

 思い出したかのようにいきなり立ち上がる。

「なんだ?」

「引っ越しの挨拶や!当日にするのがマナーやからな。あー、オレとしたことがうっかりしとったわ…はよ行かんと!ユミちゃんも付き合うてくれるやろ?」

「俺も挨拶に行くのか?」

「当たり前や。ユミちゃんかて住むんやから」

「お前ひとりでいいじゃないか。現に前のマンションだってその前のマンションだってお前ひとりで…」

「それはユミちゃんが仕事やゆうて逃げたからやろ」

「……」

「いつもいっつも引っ越して来た日に自分の部屋だけやったと思ったら、仕事やゆうてさっさととんずらするんやもん。いくらオレかて変やと思うわ。せやから今日は逃がさへんで?」

 さすがに鋭い。
 …というか、やっと気付いたのか。

「ご近所さんは大切にせな。な?」

 笑顔で見つめられ、弓生は首を縦に振るしかなかった。

「…分かった」

「ほな珈琲飲んだらちゃっちゃと行こうや。粗品は用意してあるから」

「手際がいいな」

「当たり前や。いい加減慣れとるし」

「確かにそうだな」

 同意すると思わなかったのか、弓生が苦笑すると、聖は一瞬驚いた顔をしたが、再び笑った。

「それより挨拶ん時、名前はなんていったらええかな?志島かな?戸倉かな?」

「そんなのどっちでもいいだろう」

「旦那ってなると志島なんやろうけど」

 聞いちゃいない。

「多分オレの方がご近所さんと付き合いあるやろうし」

「だったらそれぞれ名乗ればいいだけの話だろう。二人で住むんだし、二人で挨拶にも行くんだから」

―二人で。

 何気ない言葉なのだが、なんか凄く嬉しい。
 聖は満面の笑みで頷いた。

「確かにせやな!」

 さすがユミちゃんや。冴えとるなーと感心しながら、聖は珈琲を飲み干した。


******


 近所への挨拶回りもひと通り終わり、弓生と聖は再び部屋へと戻ってきた。
 そして夕飯である店屋物のカツ丼をかき込んでいる途中で、珍しく聖が箸を置いた。
 …とはいっても、すでに天婦羅蕎麦の大盛りを食した後だが。

「ふぅ…なんや今日は疲れたな」

「キッチンとリビングを一気にやったからじゃないか?リビングは別としてキッチンは今日でなくとも良かったんだぞ?」

「確かにそうかもしれんけど、明日からはちゃんとメシ作りたいし」

「あまり無理はするな。しばらくは店屋物でも構わんのだから。…それより」

「ん?」

「お前、自分の部屋は片付いたのか?」

「………自分の?」

 きょとんとした表情で小首を傾げる聖だが。

「そうだ。お前の部屋」

 数秒の後……。

「しし、しまったあぁぁ!!!」

 いきなり叫ぶと頭を抱え出した。

「どないしょ、すっかり自分の部屋の片付け忘れとった!!」

「普通は忘れんだろう」

「あかんどないしょ!今から頑張っても絶対間に合わんわ」

 どないしょどないしょと頭を抱えたまま背中が丸まっていく。

「なぁなぁ、ユミちゃん。オレの部屋手伝うてくれや」

「なぜ俺が手伝わねばならん。自分のことは自分でやれ」

「せやかてオレ、キッチンもリビング片付けたんやで?一人で」

「……」

「リビングがえらい時間掛かってしもたんやで?」

「……」

 確かに綺麗に片付いている。

「キッチンもごっつぅ大変なんやで?」

「……」

 確かにひとつひとつ新聞で包んだ食器を棚に並べるのは単純作業だが大変だ。

「ユミちゃんは自分の部屋だけだったやんか」

「……」

 当たっているだけに返す言葉がない。

「なぁなぁ、このままやと今日は部屋で寝られへん」

「分かった。明日なら手伝ってやる。第一今からだと二人でやっても間に合わんからな」

「ほんまに?ほな明日よろしくな?」

 言ってみるもんやーと聖は上機嫌だが、困ったような顔は変わらない。

「せやけど今日はどないしょ」

「リビングで寝ればいい」

「えー、今日は疲れてるからベッドで寝たいー」

 聖にしろ弓生にしろ、ソファだと足が飛び出てしまう。

「…だったら俺のベッドで寝るといい」

「ならユミちゃんは?ユミちゃんかて疲れてるからベッドで寝たいやろ?」

「別に二人で寝れない狭さじゃないだろう」

 …ということは、イコール、一緒に寝るという意味で。

「え?引越した日に早速初エッチかいな。ユミちゃんやらしいなぁ」

 小悪魔のような微笑みで見返すと、ボカッとクッションで殴られる。

「あだっ!」

 なにすんねん、いきなりと抗議をしようと思ったが、無言の上、顔がかなり怖い。
 思わず一瞬固まる聖。

「下らんことを言うならリビング…いや、廊下で寝ろ」

「嘘や嘘!ほんの可愛い冗談やんか」

 抗議から一気に弁解へと変わる。

「今ののどこが可愛いんだ?」

「ちょっとお茶目しただけやんか」

 慌てて、手を合わせてかんにんと謝り、上目遣いで見つめる。

「……」

 本人にしてみれば全くの無意識でわざとでも何でもないのだが、弓生はこの表情は反則だと思った。


******


 そしてその日の夜。

「ほなお邪魔しまぁす」

 タオルを首に掛け、枕を抱えながら風呂上りの聖がやってきた。そして空けておいてくれた弓生の隣に入り込む。
 弓生はといえば聖の前に風呂に入り、今はベッドの上で本を読みながら聖を待っていた。
 隣に来ると同時に聖から石鹸の良い香りがした。ふと顔を見ると、まだ少し髪も濡れている。

「きちんと乾かさんと風邪を引くぞ」

「せやけどユミちゃんが先に寝てしもたら嫌やなーと思って慌ててしもた」

「先に寝るわけないだろう」

 首に巻いてあったタオルを引き取ると、聖の頭をわしゃわしゃと拭いてやる。

「なんやユミちゃん、今日は優しいな」

「そういうわけではない。ただ、今日はお前なりに頑張ったからな」

 確かに聖がいなければ、最悪、食事も玄関で取る羽目になったかもしれないし、煎れたての珈琲だって飲めなかったに違いない。

「おおきに。そう言うてくれたら苦労が報われる気がして嬉しいわ」

 為すがまま髪の毛を拭かれながら、聖はそうそう―と明るく話し始めた。

「あんな?昼間粗品買うた時にこの辺ブラブラーってしたんやけど、結構ええ街やった」

「そうか」

「うん。商店街もええ感じやったし、駅の方行ったら旨そうな店もあったし」

「気に入ったか?」

「うん、気に入った」

「良かったな」

「うん」

 聖は頷いた。―今度はいつまで居られるんかな、と思いながら。

「なあ、ユミちゃん?」

「なんだ」

 頭を拭いてやっていた手をふと止めると、聖と眼が合う。

「これからも何回も何十回も引っ越さなあかんと思うけど、それでもいつでもユミちゃんが隣に居てくれて…それだけでオレは嬉しい」

「…聖」

「それってほんまにええな。うん、最高に幸せや」

 聖がふんわりと優しく微笑む。

「なぁんてな」

 自分で言ったことに照れたのか、少しはにかみながら弓生をちらりと見る。―が、弓生はいつもと変わらぬ無表情のまま聖を見つめていた。

「ユミちゃん?聞いてたか?おーい」

 ひらひらと弓生の目の前で手を振ってみるが、表情は変わらない。まさか目を開けたまま寝てるんじゃ…と小首を傾げた途端、ひらひらと振っていた手を掴まれる。

「少し黙っていろ」

 そのままそっと口唇を塞ぐと、聖がパチクリと瞬きをした。

「びっくりした…いきなりやから、目ぇ閉じるの忘れてしもた」

 その言葉に弓生はふっと微笑んだ。

「少しは察しろ」

 そんなの分からんもん―と口を尖らせるものの、聖は嬉しそうに笑うとピッと人差し指を上げる。

「もっかいや。今度はちゃんと閉じるから」

「ちゃんと閉じるって……。まったくお前はさっきから可愛いことを言うな。…大馬鹿者」

 口ではそういうものの、再び優しく口唇を塞ぐ。
 そして聖も弓生の首に腕をまわして引き寄せ、もっと―というように求める。
 いつしか口付けは深くなっていき――二人はひとつになったのだった。




〜終〜




いつも遊びに来て下さる方に、感謝を込めて書いたフリー小説です。
現在は配布を終了しております。
貰って下さった皆様、本当にありがとうございましたvv

2008.9.5